第4話 浦和の空
浦和の高校に転校してきたのは、4月の最初の週だった。
担任が「糸井拓人くんです」と言った瞬間、クラスがざわついた。当然だ。中学時代にJ1デビューを飾った選手が、普通の高校に来るとは思っていない。
拓人は黙って、窓側の一番後ろの席に座った。
窓の外を見た。空が青かった。それだけだった。
最初の一週間、誰も話しかけてこなかった。
正確には、話しかけてこようとした人間は何人かいた。でも拓人の目を見た瞬間、みんな引き返した。近づきにくい何かがあった。有名だから、というより、遠い場所にいる人間の目をしていた。
拓人には、それでよかった。
施設にいた頃から、人との距離の取り方がわからなかった。近づきすぎると、いつか離れる。離れると、痛い。だから最初から遠くにいた方が楽だった。
昼休みは屋上に行った。
弁当を一人で食べた。施設の食堂で作ってもらったおにぎりが二個。それだけだった。空を見ながら食べた。
浦和の空は広かった。
マドリードでも、ドルトムントでも、空はあった。でもあの頃の拓人はまだそんなことを知らない。ただ、この空が広いと思った。施設の裏庭から見ていた空より、少しだけ広い気がした。
話しかけてきたのは、2週間後だった。
昼休み、教室で弁当を食べていた。いつもは屋上に行くが、その日は雨だった。
窓際の席で、外を見ながらおにぎりを食べていた。
「ねえ」
声がした。
振り返ると、隣の席の女子が弁当箱を持って立っていた。
「ここ、座っていい?」
拓人は少し間を置いた。
「どうぞ」
女子は座った。弁当箱を開けた。普通の弁当だった。卵焼きとウインナーと白いご飯。
「糸井くんって、おにぎりだけなの?」
「そうです」
「毎日?」
「はい」
「好きなの?」
「特に」
会話が続かなかった。でも女子は気にしていなかった。普通に弁当を食べ始めた。
しばらく、二人で黙って食べた。
雨が窓を叩いていた。
「奥村遥」と女子は言った。
「え?」
「名前。奥村遥」
「あ、糸井——」
「知ってる」と遥は言った。「有名だから」
それだけ言って、また弁当を食べた。
有名だから、の後に何も来なかった。
すごいね、とか、サインして、とか、なんで普通の高校に来たの、とか。何も来なかった。ただ「知ってる」で終わった。
拓人は、その「知ってる」の軽さに、少し戸惑った。
翌日も、遥は隣に座った。
晴れていたから屋上に行こうとしたら、廊下で遥とすれ違って「今日は教室で食べるの?」と聞かれた。なんとなく「そうします」と答えてしまった。
また二人で、窓際で弁当を食べた。
「施設って、ご飯おいしいの?」
突然、遥が聞いた。
拓人は固まった。
施設のことは、言っていない。でも遥は知っている。知っているのに、今まで何も言わなかった。そして今、普通に聞いた。
「まあ、普通です」
「そっか」
それだけだった。
深掘りしなかった。同情もしなかった。ただ「そっか」と言って、卵焼きを食べた。
拓人は窓の外を見た。
浦和の空が、また広かった。
友達、という感覚がよくわからなかった。
施設にいた頃、仲のいい子はいた。でも卒業したら連絡が来なくなった。サッカーで活躍し始めたら、近づいてくる人間は増えた。でもそれは友達じゃなかった。
遥は違った。
有名だから近づいてきたわけじゃない。施設育ちだから同情しているわけでもない。ただ隣に座って、普通に話しかけてくる。
それだけだった。
でもその「それだけ」が、拓人には新しかった。
昼休みが終わると遥は「またね」と言って自分の席に戻る。放課後は部活があるから先に帰る。LINEを交換しようとも言わない。ただ昼休みに隣に座って、弁当を食べて、「またね」と言う。
それだけだった。
でも拓人は、雨の日だけじゃなく、晴れの日も屋上に行かなくなった。
ある日、遥が聞いた。
「サッカー、好きなの?」
「好きです」
「なんで?」
拓人は少し考えた。
「ボールが正直だから」
「正直?」
「蹴った通りに動く。嘘をつかない」
遥はしばらく考えてから、「そっか」と言った。
「人は嘘をつくから?」
答えなかった。
遥も答えを求めなかった。
窓の外で、体育の授業をしている生徒たちが走っていた。二人はしばらく黙って見ていた。
「私、レッズのファンなんだ」と遥は言った。
「知ってます」
「なんで?」
「川口出身でしょ。この辺の人はだいたい」
遥は笑った。
「そっか、バレてた」
それから少し間を置いて、言った。
「糸井くんのプレー、見たことある。中学の時。すごかった」
「ありがとうございます」
「でも今は関係ないか」
「え?」
「今ここにいる糸井くんは、レッズの選手じゃなくて、クラスメイトだから」
拓人は遥の顔を見た。
真剣な顔だった。笑っていなかった。本当にそう思っている顔だった。
何も言えなかった。
5月の連休明け、拓人は練習試合でゴールを決めた。
翌日、教室に入ると、何人かが「昨日のゴール見た」と声をかけてきた。拓人は「ありがとう」と言いながら席に向かった。
遥は何も言わなかった。
いつも通り「おはよう」と言って、教科書を出していた。
昼休み、隣に座った遥が弁当を開けながら言った。
「昨日のゴール、きれいだったね」
「見てたんですか」
「うん。スタジアムじゃなくて、テレビで」
「そうですか」
「でもまあ、関係ないか」
「また言ってる」
遥は笑った。
「だって本当のことだもん。ここでは糸井くんはただのクラスメイト。そっちの方が面白くない?」
面白い、という感覚がなかった。
でも悪くない、と思った。
夏休みの前日、拓人はドルトムントへの移籍が決まりそうだという記事が出た。
遥は教室で「読んだよ」と言った。
「どうなの?」
「まだわかりません」
「そっか」
いつもの「そっか」だった。
でもその日の昼休み、遥はいつもより少し静かだった。弁当を食べながら、外をずっと見ていた。
「どこ見てるんですか」
「空」
「何かありますか」
「広いなって」
拓人も空を見た。
夏の空だった。雲が白くて、遠くに見えた。
「広いですね」
「うん」
それだけだった。
でもその日の「またね」は、少しだけ長かった気がした。
◆次話予告◆
荒川の土手を、二人で歩いた夜がある。
拓人が初めて、施設の話を「少しだけ」した夜のことを、遥は日記に書いていた。
「何も聞かなかった。ただ隣を歩いた。それでよかったと思う」
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