第3話 遥の日記
遥の葬儀は、川口でやった。
遥の両親が仕切ってくれた。義母の節子が業者と交渉して、義父の誠が親戚への連絡を回した。拓人は何もしなかった。できなかった、というより、何をすればいいかわからなかった。
式の間、結衣は節子が抱いていた。
航太は最前列に座って、ずっと前を向いていた。泣かなかった。葵は途中から声を上げて泣いて、それが止まらなくなって、最後は眠ってしまった。
拓人は、遥の顔を見られなかった。
棺の前に立って、白い布に包まれた顔を見ようとした。でも、できなかった。視線が、その手前で止まった。
これが遥じゃない、と思いたかったのかもしれない。
葬儀が終わった夜、拓人は病院から持ち帰った荷物を開けた。
着替え。洗面用具。文庫本が二冊。そして、家事ノートと日記。
家事ノートは分厚かった。
表紙に「糸井家・家事ノート」と書いてある。遥の字だ。丸みのある、几帳面な字。中を開くと、細かい文字がびっしり並んでいた。
航太の好きなもの、嫌いなもの。葵のアレルギー。かかりつけの小児科の電話番号。保育園の申し込み時期。ゴミの収集日。スーパーの特売日。洗濯物の干し方。緊急連絡先。近所のかかりつけ医。子供たちそれぞれの寝かしつけの方法まで、丁寧に書き分けてあった。
全部、書いてある。
全部。
拓人はページをめくる手が止まった。
いつ書いたんだ。こんなに細かいことを、いつ。欧州を転々としながら、三人の子供を育てながら、いつの間にこれだけのものを。
知らなかった。
俺は何も知らなかった。
日記は、薄いノートだった。
開くのをためらった。プライベートなものだとわかっていた。でも病院のロビーで一度開いてしまったから、もう止まれなかった。
最初のページ。
「この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから」
結婚した年の日付。
次のページ。
「今日、拓人がスペインに旅立った。航太は泣かなかった。えらい。私はちょっと泣いた。内緒」
その次。
「拓人から電話。試合に勝ったって。声が弾んでた。それだけで十分、と思うようにした」
思うようにした。
その一言が、刺さった。
自然にそう思えたわけじゃない。そう思うように、した。その違いを、拓人はしばらく見つめた。
ページをめくるたびに、遥の声が聞こえる気がした。
文句はほとんど書いていなかった。でも、ところどころに本音が滲んでいた。
「今日、航太が熱を出した。39度2分。病院に連れて行って、点滴を打ってもらった。拓人に電話したら『そうか』と言って、すぐに試合の話になった。そうか、か」
読んだ瞬間、体が固まった。
覚えている。
あの通話だ。遥が何か言っていた。聞いていなかった。試合前日で、頭の中が相手チームの分析でいっぱいだった。
「そうか」と言った。それだけだった。
別のページ。
「拓人の誕生日に、子供たちとケーキを焼いた。航太が卵を割るのを手伝ってくれた。葵がクリームを食べすぎた。写真を送ったら、既読がついたのは3日後だった。試合が続いていたから仕方ない。仕方ない」
仕方ない、が二回あった。
自分に言い聞かせるように。
またページをめくった。
「葵が幼稚園で転んで、膝を擦りむいた。大泣きして、パパに電話したいと言った。かけたら、繋がらなかった。試合中だったと思う。しばらくして折り返しがきたけど、葵はもう泣き止んでいた。拓人は『大丈夫だったか』と言った。大丈夫だったから電話してないでしょ、と思ったけど、言わなかった」
言わなかった、がまた出てきた。
遥は言わなかったことだらけだ。
あるページで、また手が止まった。
「拓人は家族のためにサッカーをしてると思ってる。でも本当は、サッカーのために家族を使ってるんじゃないかって、たまに思う。言わないけど。言っても変わらないから、言わない」
言っても変わらないから。
言わないけど、じゃなかった。
言っても変わらないから、言わない。
遥はそう思っていた。俺は変わらないと、諦めていた。
胸の奥で、何かが崩れた。
日記を閉じた。
閉じて、しばらくそのまま動けなかった。
翌朝、崩壊が始まった。
結衣が泣いた。朝の5時に泣き始めて、止まらない。ミルクをやろうとしたが、缶に書いてある分量が頭に入ってこない。お湯の温度は何度だ。どのくらい冷ませばいい。
結衣は泣き続けた。
節子に電話しようとして、やめた。夜中の5時だ。義母を頼るのは、なんとなく負けな気がした。
YouTubeで「赤ちゃん ミルク 作り方」と検索した。動画が出てきた。見ながら作った。温度を確かめる方法は、手首の内側に垂らすらしい。やってみた。少し熱かった。冷ました。もう一度やった。
結衣に飲ませた。
飲んだ。
泣き止んだ。
なんだ、できるじゃないか——そう思った瞬間、今度はオムツだと気づいた。においがしていた。さっきからしていた。ミルクに必死で、気づかなかった。
オムツを替えようとした。
テープがどこについているか、わからなかった。前と後ろの区別もわからなかった。結衣の足をどう持てばいいかもわからなかった。
5分格闘した。
なんとか替えた。でも明らかに歪んでいた。これでいいのか、わからない。
結衣はまた泣いた。
航太が起きてきたのは、7時過ぎだった。
リビングに来て、ぐちゃぐちゃになった拓人を見て、一瞬だけ何かを言いかけた。でも何も言わなかった。
台所に入って、冷蔵庫を開けた。
卵を取り出して、フライパンを出した。
12歳が、黙って朝食を作り始めた。
拓人は何も言えなかった。何か言うべきだとわかっていた。ありがとうとか、俺がやるとか、何か。でも言葉が出てこなかった。
葵が起きてきた。
目が赤かった。昨日から泣いていたから、目が腫れている。リビングに入ってきて、結衣を見て、「だっこしていい?」と拓人に聞いた。
「ああ」
葵は結衣を受け取って、ソファに座った。ゆっくり揺らしながら、小さな声で何かを歌い始めた。
結衣が、泣き止んだ。
葵が、笑った。泣き腫らした目で、笑った。
拓人は台所に立って、航太が卵を焼くのを見ていた。葵が結衣をあやしているのを見ていた。
俺は何もしていなかった。
10年間、ずっと。
稼ぐことが愛だと思っていた。欧州で結果を出すことが、家族への責任だと思っていた。遥がいれば、子供たちは大丈夫だと思っていた。
でも遥は、一人でこれを全部やっていた。
三人の子供を育てて、家事をして、海外生活の不安を抱えながら、家事ノートをびっしり書いて、日記には「言っても変わらないから」と書いて。
一人で。
「パパ」
葵の声だった。
「ご飯、食べないの?」
航太が皿を並べていた。卵焼きとご飯と味噌汁。どこで覚えたんだ。
「食べる」
拓人はテーブルに着いた。
四人で、朝食を食べた。
誰も話さなかった。結衣だけが、葵の腕の中でときどき声を出した。それ以外は静かだった。
でも、静かなだけだった。
壊れてはいなかった。
その日の午後、拓人はGMに電話した。
「契約を解除してくれ」
「は?」と相手は言った。当然だ。UCLを制した翌週に、10番がそんなことを言うとは思っていない。
「日本に帰る。もう戻れない」
「待ってくれ、話し合おう。条件を——」
「条件の問題じゃない」
電話を切った。
スマートフォンを置いて、窓の外を見た。川口の空は曇っていた。どこにでもある、普通の曇り空だ。
日記を、もう一度開いた。
最後のページを探した。
入院する直前に書いたと思われるページ。
「今日、先生に呼ばれた。検査の結果が出た。膵臓。ステージ4。余命半年。この子を産む前に、私は死ぬかもしれない。怖い。めちゃくちゃ怖い。でも拓人には言えない。言ったら、試合に集中できなくなる。大事な時期だから。いつもそう思って、いつも言えなかった。これが最後になるかもしれないけど、やっぱり言えない。情けない」
情けない、と書いていた。
遥が自分を責めていた。
言えなかった自分を、情けないと書いていた。
違う。情けないのは俺だ。言えない環境を作っていたのは、俺だ。「大事な時期だから」と気を遣わせ続けたのは、俺だ。
最後の一行に、こう書いてあった。
「拓人へ。あなたはきっと、どこでも10番よ。サッカーじゃなくても。あなたはいつか、わかる人になる。遅いけど」
遅いけど。
遥は最後まで正直だった。
褒めながら、ちゃんと本音も書いた。
拓人は日記を閉じた。
窓の外を、また見た。
曇り空の下で、川口の街が動いている。人が歩いて、車が走って、子供が自転車を漕いでいる。何も変わっていない。
でも俺は、変わらないといけない。
言っても変わらない、と思われていた男が。
これから変わらないといけない。
問題は、どこから始めればいいか、まったくわからないことだ。
◆次話予告◆
浦和の高校に、誰とも話さない転校生がいた。
施設から通学していることは、みんな知っていた。でも遥だけが、それを一切気にせず話しかけた。
特別扱いしなかった。ただ、普通に。
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