第2話 余命宣告
川口に着いたのは、電話から丸一日たった朝だった。
ロンドンから羽田まで、14時間。祝勝会には出なかった。
空港まではルカが送ってくれた。何も聞かずに。
機内では一睡もできなかった。首にかけたままのメダルを、途中でポケットにしまった。
重かったからだ。
羽田から電車を乗り継ぎ、最後はタクシーに乗った。
窓の外を流れる景色がマドリードとまるで違う。
当たり前だ。でもその当たり前が、頭に入ってこない。
奥村病院。
遥の実家から歩いて10分の小さな総合病院だ。
エントランスに入ると、消毒液の匂いがした。
受付で名前を告げると、「お待ちしていました」と言われた。
待っていた。
その言葉の意味を考えながら、廊下を歩いた。
病室の前に、節子が立っていた。目が赤い。
「拓人さん」
それだけ言って、節子は頭を下げた。
「救急車を呼んだの、航太なのよ。試合が終わって、すぐ。あの子がいなかったら……」
最後まで言わなかった。言えなかったのだと思う。
病室に入ると、遥は眠っていた。
大きなお腹が、ゆっくり上下している。
左腕に点滴の管。空港で見送ったときより、明らかに顔色が悪い。
少しして、白衣の男が入ってきた。四十代くらい。担当医だと名乗った。
「奥様が眠っておられるうちに、ご説明してもよろしいですか」
拓人は頷いた。
医者の声は落ち着いていた。丁寧だった。それが、かえって怖かった。
「膵臓ガンの進行が、想定より早くなっています。肝臓の転移も、先月の検査より広がっている」
「……はい」
「奥様には、余命は半年とお伝えしていました」
拓人は顔を上げた。
「半年?」
「ご存じなかったですか」
知らなかった。遥は言わなかった。
先生にほかに何か言われたか。
マドリードでそう聞いたとき、遥は一瞬だけ目をそらして、「ううん」と言った。
あれは、そういうことだったのか。
「ただ、昨日の状態を見る限り、それより短くなる可能性があります。正直に申し上げて、出産まで持つかどうかも、わかりません」
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。
「今なら、選択肢があります。帝王切開で赤ちゃんを出して、すぐに治療を始める。32週ですから、赤ちゃんは保育器に入りますが、十分に育つ週数です」
「それなら——」
「治療は、しません」
遥の声だった。
振り返ると、遥が目を開けていた。
「起きてたのか」
「うん。途中から」
遥はゆっくり体を起こした。
お腹を抱えて、背筋をまっすぐ伸ばして。顔色は悪い。でも、目は澄んでいた。
「先生、少しだけ二人にしてもらえますか」
担当医が静かに部屋を出た。ドアが閉まる音がした。
「なんで黙ってた」
自分の声が、他人の声みたいだった。
「半年って、なんで言わなかった」
「言ったら、あなたウェンブリーに行かなかったでしょ」
「当たり前だろ!」
声が、病室の壁に跳ね返った。
遥に怒鳴ったのは、初めてだった。
高校で出会ってから17年。一度もなかった。
遥は驚かなかった。わかっていた、という顔をしていた。
「だから、言わなかったの」
拓人は、何も言い返せなかった。
遥はお腹に手を当てた。ゆっくりと、確かめるように。
「32週で出したら、この子は最初の何週間かを、保育器の中で過ごす。そのあいだに、私が死ぬかもしれない。一度も抱けないまま」
「……」
「だったら、この子がちゃんと育つまで、お腹の中で一緒にいたい。それが、私にできる全部」
「お前の命は、どうなる」
「前にも言ったでしょ」
遥は、少しだけ笑った。
「この子に、パパの顔を見せてあげたいの」
部屋が、静かだった。
廊下を誰かが歩く足音。
どこか遠くで、赤ん坊の泣き声。窓の外で、鳥が鳴いた。
それだけだった。
何を言っても、変わらない。17年も隣にいれば、それくらいはわかる。
「俺のことは、いいのか」
我ながら、情けない言葉だと思った。
遥は少し考えてから、言った。
「拓人、ちゃんとパパできる?」
「できる」
即答した。
遥はまた笑った。今度は、少し意地悪な笑い方で。
「本当に? オムツ、替えたことある?」
「……ない」
「離乳食、作れる?」
「作れない」
「保育園の申し込み、どうやるか知ってる?」
「知らない」
遥の笑顔が、深くなった。
「じゃあ、頑張らないとね」
そこで、何かが切れた。
拓人は声を上げて泣いた。
33歳の男が、病院の個室で。看護師が驚いて飛び込んできた。
遥が「大丈夫です」と笑いながら追い返した。
それでも止まらなかった。
遥は何も言わなかった。点滴の管がつながった左手で、拓人の手を握っていた。
どのくらいそうしていたか、わからない。
泣き止んだあと、拓人は遥の手を握ったまま、ベッドのわきの床に座り込んだ。
「怖くないのか」
「怖い」と遥は言った。
「めちゃくちゃ怖い。毎日怖い。夜中に目が覚めて、泣いてる。でもね」
お腹を、また撫でた。
「この子が動くたびに、怖くなくなる。不思議でしょ」
拓人は、何も言えなかった。
「航太と葵のこと、頼むね」
「ああ」
「この子は、結衣って名前にしようと思ってる。女の子だから」
「まだ性別、聞いてないだろ」
「わかる。母親だから」
根拠のない自信だった。でも遥が言うと、本当のことみたいに聞こえた。
「結衣」と拓人は繰り返した。
「うん。糸井結衣。糸と糸が結ばれるみたいで、いいでしょ」
窓から差し込む光が、遥のお腹の上で揺れていた。
航太と葵に話したのは、その日の夕方だ。
奥村家のリビング。義父の誠は、黙ったままソファに座っていた。
節子は台所に立っていた。ときどき、鼻をすする音がした。
航太は、最初から無表情だった。
拓人が話し終えると、しばらく黙ってから、言った。
「ママは死ぬの?」
「……わからない。でも、覚悟はしておかないといけない」
航太はまた黙った。
考えているのか、考えるのをやめたのか。拓人には読めなかった。
葵は泣いた。
声を上げて、子供らしく泣いた。
節子が台所から飛んできて、抱きしめた。泣き声が、部屋じゅうに響いた。
拓人は、何もできなかった。
父親として、何か言わないといけない。でも何を言えばいい。
自分だって、さっきまで病院で泣いていた。
そのとき、航太が立ち上がった。
葵の隣に座って、背中をゆっくり撫でた。
何も言わなかった。ただ、撫で続けた。
昨日の朝、倒れた母親を見て、救急車を呼んだのもこの手だ。
拓人は、その背中を見ていた。12歳の息子の背中を。
俺より、ずっとちゃんとしている。
その夜、拓人は奥村家の縁側に、一人で座っていた。
梅雨の匂いがした。
半年。
いや、それより短いかもしれない。
遥に残された日数を、指で数えようとして、やめた。
数えたら、その数字が本当になる気がした。
◆次話予告◆
7週間後、結衣が生まれた。
遥に残された時間は、あと3日だった。
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