第2話 余命宣告
川口に着いたのは、翌朝だった。
成田から電車を乗り継いで、タクシーに乗った。窓の外を流れる景色が、マドリードと全然違う。当たり前だ。でもその当たり前が、頭に入ってこない。
奥村病院。
遥の実家の近くにある、小さな総合病院だ。エントランスに入ると、消毒液の匂いがした。受付で名前を告げると、「お待ちしていました」と言われた。
待っていた。
その言葉の意味を考えながら、廊下を歩いた。
担当医は、四十代くらいの男だった。落ち着いた声で、丁寧に説明してくれた。
膵臓ガン。ステージ4。
すでに肝臓への転移が確認されている。発見が遅れたのは、妊娠中だったからだ。症状が妊娠によるものと区別がつきにくく、精密検査が後回しになった。
「余命は、どのくらいですか」
自分の声が、他人の声みたいだった。
「半年、というのが現時点での見立てです。ただし、すぐに治療を開始すれば——」
「治療はしません」
遥の声だった。
拓人は振り返った。
ベッドの上に遥が座っていた。大きなお腹を抱えて、背筋をまっすぐ伸ばして。点滴の管が左腕に繋がっている。顔色は悪い。でも目は、澄んでいた。
「遥——」
「先生、席を外していただけますか」
担当医が静かに部屋を出た。ドアが閉まる音がした。
二人きりになった。
「聞いてた?」
「ああ」
「どこから?」
「全部」
遥は少し笑った。怒るかと思ったが、笑った。窓から朝の光が差し込んでいて、その横顔が妙に綺麗だった。
「治療、しないのか」
「うん」
「なんで」
「この子がいるから」
お腹に手を当てた。ゆっくりと、確かめるように。
「抗ガン剤を使ったら、お腹の子に影響が出る。放射線も同じ。この子を産むまで、治療はできない。産んだ後で治療を始めても、もう手遅れかもしれない」
「それでも、やるべきだ。命を——」
「拓人」
静かな声だった。
遥が拓人を見た。その目を見た瞬間、拓人は何も言えなくなった。
「この子に、パパの顔を見せてあげたい」
部屋が、静かだった。
廊下を誰かが歩く足音がした。どこかで赤ん坊が泣いていた。窓の外で、鳥が鳴いた。
それだけだった。
「俺は」と拓人は言いかけて、止まった。
何を言えばいい。治療しろと言うのか。お前の命の方が大事だと言うのか。でも遥はもう決めている。この顔は、決めた顔だ。十年一緒にいたから、わかる。
「俺のことは、いいのか」
我ながら、情けない言葉だと思った。
遥は少し考えてから、言った。
「拓人、あなた、ちゃんとパパできる?」
「できる」
即答した。
遥はまた笑った。今度は少し意地悪な笑い方で。
「本当に? オムツ、替えたことある?」
「……ない」
「離乳食、作れる?」
「作れない」
「保育園の申し込み、どうやるか知ってる?」
「知らない」
遥の笑顔が、深くなった。
「じゃあ、頑張らないとね」
拓人は絶叫した。
後から考えると、みっともなかったと思う。病院の個室で、33歳の男が声を上げて泣いた。看護師が驚いて飛び込んできた。遥が「大丈夫です」と笑いながら追い返した。
それでも止まらなかった。
遥は何も言わなかった。ただ、点滴の管が繋がった左手で、拓人の手を握っていた。
どのくらいそうしていたか、わからない。
泣き止んだ後、拓人は遥の手を握ったまま、床に座り込んだ。ベッドのわきに。
「怖くないのか」と聞いた。
「怖い」と遥は言った。
「めちゃくちゃ怖い。毎日怖い。夜中に目が覚めて、泣いてる。でもね」
お腹を、また撫でた。
「この子が動くたびに、怖くなくなる。不思議でしょ」
拓人には、何も言えなかった。
「航太と葵のこと、頼むね」
「ああ」
「結衣って名前にしようと思ってる。女の子だから」
「まだ性別、わかってないだろ」
「わかる。母親だから」
根拠のない自信だった。でも遥が言うと、本当のことみたいに聞こえた。
「結衣」と拓人は繰り返した。
「うん。糸井結衣。糸と糸が結ばれるみたいで、いいと思って」
窓から差し込む光が、遥のお腹の上で揺れていた。
航太と葵に話したのは、その日の夕方だ。
奥村家のリビング。義父の誠は黙ったままソファに座っていた。義母の節子は台所で何かを作りながら、時々鼻をすする音がした。
航太は最初、無表情だった。
拓人が話し終えた後、しばらく黙って、それから言った。
「ママは死ぬの?」
「……わからない。でも、覚悟はしておかないといけない」
航太はまた黙った。何かを考えているのか、考えることをやめているのか、拓人には読めなかった。
葵は泣いた。
声を上げて、子供らしく泣いた。節子が台所から飛んできて、抱きしめた。葵の泣き声が部屋に響いた。
拓人は何もできなかった。
ただ、その場に立っていた。
父親として、何か言わないといけない。でも何を言えばいい。自分だって、さっきまで病院で泣いていた。子供に、何かを教えられる立場じゃない。
そのとき、航太が立ち上がった。
葵の隣に座って、背中をゆっくりと撫でた。
何も言わなかった。ただ、撫で続けた。
拓人は、その背中を見ていた。12歳の息子の背中を。
俺より、ずっとちゃんとしている。
遥が結衣を産んだのは、それから2ヶ月後だった。
帝王切開。手術室の外で、拓人は3時間待った。航太と葵と、三人で並んで待った。誰も話さなかった。
産声が聞こえた瞬間、葵が拓人の手を握った。
結衣は、小さかった。
当たり前だが、こんなに小さいとは思わなかった。看護師に抱かせてもらって、その軽さに驚いた。こんなに軽いのに、遥はこれだけのものを抱えていたのか。
「かわいい」と葵が言った。
「うん」と航太が言った。
拓人は何も言えなかった。
ガラス越しに、遥が笑っていた。疲れ果てた顔で、それでも笑っていた。
遥が息を引き取ったのは、出産の負担もあってか想定された余命よりも遥かに早い、出産から3日後の朝だった。
眠るように、静かに。
枕元に、書きかけの家事ノートと日記が残されていた。拓人はその日記を持って、病院のロビーのソファに座った。
開いた。
最初のページに、こう書いてあった。
「この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから」
日付は、結婚した年だった。
笑えなかった。泣けなかった。ただ、その文字をいつまでも見つめていた。
窓の外で、川口の朝が始まっていた。
普通の朝だった。人が歩いている。バスが走っている。コンビニに客が入っていく。世界は何も変わっていない。
でも、俺の世界は終わった。
いや、違う。
拓人は日記を閉じた。
終わったんじゃない。始まるんだ。遥が命を賭けて繋いだものが、今、俺の手の中にある。
問題は、俺に何もできないことだ。
オムツの替え方も、離乳食の作り方も、針の持ち方も。
何も知らない。
何も、できない。
◆次話予告◆
葬儀の翌朝、拓人は初めてオムツを替えようとした。
テープがどこについているかすら、わからなかった。
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