第1話 欧州の頂点
昨日、夢を見た。
施設の薄暗い食堂で、一人でボールを蹴っていた。
壁に当たって返ってくるボールを、ただ黙って蹴り続ける。誰もいない。観客も、仲間も、声援もない。ただ、ボールが返ってくる音だけが響いている。
どれだけ蹴っても、ゴールなどない。
目が覚めると、そこはウェンブリー・スタジアムだった。
9万人の歓声が、自分の体を押し潰さんばかりに降り注いでいた。
五月の終わり。UEFAチャンピオンズリーグ決勝。
レアル・マドリー対マンチェスター・シティ。
舞台はロンドン郊外、ウェンブリー・スタジアム。サッカーの聖地と呼ばれるこの場所に、世界中から9万人が集まっていた。
前半32分、糸井拓人はセンターサークル付近でボールを受けた。
マークは二人。一人が寄せてくる。もう一人が後ろを切っている。教科書通りのプレスだった。
右に出すと見せて、左足で切り返す。一人目が置き去りになる。二人目が飛び込んでくる瞬間、股の間を通した。
スタジアムが、一瞬だけ静かになる。
あの一瞬が好きだ。9万人が同時に息を呑む、あの0.5秒。
拓人はそのまま持ち上がった。ペナルティエリアの手前、右斜め45度。GKがポジションを修正しようとしている。ディフェンスが戻りきれていない。
見えた。
右足を振り抜いた瞬間、手応えがあった。音より先に、体が知っている。これは入る。
弾丸のようなシュートがサイドネットを揺らした。
ゴールの瞬間、何も考えていなかった。
走り出して、コーナーフラッグの前で膝をついた。後ろから仲間たちが覆い被さってくる。誰かが耳元で叫んでいる。スペイン語と英語とポルトガル語が混ざった歓声が、降り注いでくる。
俺はただ、芝の匂いを嗅いでいた。
ウェンブリーの芝は、独特の匂いがする。整備された人工的な青さの奥に、古い土の匂いが混じっている。百年分の勝者と敗者が染み込んだ、そういう匂いだ。施設の裏庭で嗅いだ草の匂いとは全然違う。でも、どこか懐かしい。
試合はそのまま1-0で終わった。
表彰式が始まった。
ピッチ中央に設置されたステージに、選手たちが並ぶ。メダルをかけてもらって、順番にトロフィーの前に進む。
ビッグイヤーが、そこにあった。
高さ73センチ。重さ8キロ。シルバーの巨大な耳を持つ、あのトロフィーだ。世界中のサッカー選手が夢見て、ほとんどの選手が一生触れることのできない、その塊が、今、目の前にある。
キャプテンのルカが最初に掲げた。9万人が爆発した。
順番が回ってきた。
拓人はトロフィーに手をかけた。
ずっしりとした重さが、両腕に伝わった。思ったより重い。いつもテレビで見ているより、ずっと重い。
天に向けて、持ち上げた。
照明が、銀色の表面に乱反射した。スタジアムが揺れた。フラッシュが無数に瞬いた。
でも拓人には、何も聞こえなかった。
9万人の歓声も、花火の音も、仲間たちの叫びも。全部が遠くなって、ただこの重さだけがあった。
8キロの重さ。
施設の食堂でボールを蹴り続けた少年が、ここまで来た。誰にも教わらず、針の持ち方も知らないまま、ただサッカーだけをやってきた。その全部が、今、この重さになっている。
足りないものが、何もない。
そう思った。
ロッカールームは、もう収拾がつかなかった。
シャンパンが飛び交い、誰かが叫び、誰かが泣いている。監督が何かスピーチをしようとしているが、誰も聞いていない。スタッフが写真を撮っている。ルカが拓人の首に腕を回して、耳元で言った。
「お前、また決めたな」
「たまたまだ」
「嘘つくな」
ルカは笑って、シャンパンを頭からかけてきた。
鏡の前に立ったとき、自分の顔が少しだけ他人に見えた。シャンパンで濡れた髪。レアル・マドリーの10番。UEFAチャンピオンズリーグ優勝。
足りないものが、何もない。
そう思った瞬間、スマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見て、拓人は動けなくなった。
奥村病院。
遥が入院している病院だ。
電話口の声は、落ち着いていた。それがかえって怖かった。
「糸井さん、今すぐ来ていただけますか」
「何があったんですか」
「直接お話ししたいことがあります」
ロッカールームの歓声が、遠くなった。
ルカが何かを言っている。仲間たちが笑っている。シャンパンの泡が床を流れている。全部、水槽の外から見ているみたいだった。
拓人はロッカールームを出た。
廊下は静かだった。歓声が壁一枚向こうにあるのに、ここだけ別の時間が流れている。
着替えも、シャワーも浴びていない。シャンパンで濡れたユニフォームのまま、拓人はスタジアムの外に出た。
ウェンブリーの夜空は、星が出ていた。
9万人が帰り始めている。みんな笑っている。旗を持ち、歌いながら歩いている。今夜のロンドンは眠らない。
拓人は逆方向に歩いた。
タクシーを拾った。ヒースロー空港まで、と言った。運転手が「今夜は渋滞だぞ」と言った。
「急いでいます」
それだけ答えた。
窓の外を流れるロンドンの夜景を見ながら、拓人はスマートフォンを握りしめていた。遥に電話しようとして、やめた。病院に電話しようとして、やめた。
考えるのも、やめた。
ただ、窓の外を見ていた。
街灯が流れる。人々が歩いている。パブのテラスに明かりがついている。どこかで花火が上がっている。今夜のロンドンは、世界で一番幸せな街だ。
俺だけが、逆走している。
飛行機の中で、拓人はずっと目を開けていた。
眠れなかったわけじゃない。眠りたくなかった。目を閉じたら、何かを考えてしまいそうだった。
隣の席が空いていた。
遥が日本に帰ったのは、3週間前だ。8ヶ月になったお腹を抱えて、「そろそろ実家の近くにいたい」と言った。拓人は試合があるからと、マドリードに残った。
最後に話したのは、4日前。
ビデオ通話で、遥は笑っていた。お腹が大きくて、ソファから起き上がるのが大変だと笑っていた。航太が最近料理を手伝ってくれると言っていた。葵が毎日お腹に話しかけていると言っていた。
「拓人、決勝、テレビで見るね」
「ああ」
「緊張してる?」
「してない」
「嘘つき」と遥は笑った。
あの笑顔が、頭から離れない。
機内の照明が落ちて、周りの乗客が眠り始めた。拓人は膝の上に置いた手を見た。シャンパンで少し荒れた手。この手で、今日ゴールを決めた。
窓の外は、暗かった。
雲の切れ間から、地上の明かりが見えた。どこかの街だ。誰かが今夜もそこで生きている。
拓人はシートに深く身を沈めた。
足りないものが、何もない。
さっきそう思った。
では、なぜこんなに怖いのか。
答えは出なかった。飛行機はただ、暗い空を飛び続けた。東へ。東へ。遥のいる場所へ向かって。
◆次話予告◆
病院で待っていたのは、遥の笑顔だった。
「治療はしません」
静かな声で、彼女は言った。
お腹に手を当てながら。
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