第10話 世界一の夜に
バロンドールを受賞した年は、全部が重なった。
ブンデスリーガで得点王になった。DFBポカールで優勝した。UCLでも得点を重ねて、チームは欧州三冠を達成した。ワールドカップでは得点王になり、日本を初の決勝に導いた。
個人としても、ゴールデンブーツを受賞した。
そして10月、パリでバロンドールの授賞式があった。
日本人として初めて。アジア人として初めて。その言葉が、何週間も前からメディアを賑わせていた。
航太は1歳になっていた。
川口から節子が来てくれて、授賞式の間、アパートで航太の面倒を見てくれることになった。
出発の朝、節子が航太を抱いて玄関に立っていた。
「行ってらっしゃい」と節子は言った。
航太はまだ言葉がわからない。でも拓人と遥が出かけようとすると、何かを感じたのか、ぐずり始めた。
遥が航太の頬に手を当てた。
「すぐ帰るから」と小さな声で言った。
航太は泣き止まなかった。
遥は少し困った顔をして、拓人を見た。
「行きましょう」と拓人は言った。
遥は頷いた。玄関を出た。エレベーターの中で、遥は何も言わなかった。
パリは、秋だった。
シャトレ座の前に黒塗りの車が並んでいた。世界中からサッカー界のスターたちが集まっていた。各国の代表選手、監督、OB。カメラマンが走り回っていた。
レッドカーペットで写真を撮られた。
遥は拓人の隣を歩いた。川口で買った紺色のドレスで、世界中のカメラの前を歩いた。背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向いて。
「緊張してますか」
「してる」と遥は小声で言った。「めちゃくちゃしてる」
「顔に出ていないです」
「出したら負けな気がして」
何に負けるのかよくわからなかった。でも遥らしかった。
席についた。
周りを見渡した。
世界中のスター選手が並んでいた。テレビで見たことのある顔ばかりだった。でも今日は、自分が呼ばれる側だ。
遥が小声で言った。
「航太、今頃泣いてるかな」
「節子さんがいるから大丈夫です」
「そうだね」
遥はプログラムを開いた。フランス語で書いてあった。読めないのに、読むふりをしていた。
受賞のプレゼンターがステージに上がった。
名前が読み上げられた。
「糸井拓人」
会場が沸いた。
立ち上がった。
隣の遥を見た。遥は拍手していた。笑っていた。
ステージに向かった。
トロフィーを受け取った。
金色の球体。ずっしりと重かった。世界中のサッカー選手が夢見るもの。施設の食堂でボールを蹴り続けた少年が、今、これを持っている。
マイクの前に立った。
スピーチの原稿は用意していなかった。代理人に「用意した方がいい」と言われていたが、断った。バロンドールくらい、その場で言えばいい。そう思っていた。
口を開いた。
チームメイトへの感謝を言った。監督への感謝を言った。クラブへの感謝を言った。日本サッカー協会への感謝を言った。ファンへの感謝を言った。
それで終わった。
席に戻った。
遥が拍手していた。笑っていた。
何かがおかしい気がした。でもその時は、何がおかしいのかわからなかった。
授賞式の後、パーティがあった。
各国の選手たちと写真を撮った。記者のインタビューに答えた。代理人が次々と挨拶を連れてきた。
気づいたら、遥がいなくなっていた。
キョロキョロしていたら、代理人が「奥さんはあちらに」と教えてくれた。
窓際にいた。
シャンパングラスを持って、窓の外を見ていた。パリの夜景が広がっていた。エッフェル塔が光っていた。
近づいた。
「遥」
振り返った。
笑っていた。
でも目が、少し赤かった。
「泣いてますか」
「泣いてない」
「目が赤いです」
「シャンパンが強かっただけ」
「一口しか飲んでいないのに」
遥は少し黙った。
それからまた窓の外を見た。
「ねえ、パリって綺麗だね」
「そうですね」
「前から来たかったんだ」
「いつでも連れてきます」
「うん」
また黙った。
エッフェル塔が光っていた。
「おめでとう」と遥は言った。
「ありがとうございます」
「バロンドール、すごいね」
「そうですね」
「世界一だよ」
「そうですね」
遥はシャンパングラスを持ったまま、エッフェル塔を見ていた。
「ねえ、拓人」
「はい」
「スピーチ、聞いてたよ」
「ありがとうございます」
「チームへの感謝とか、クラブへの感謝とか、ちゃんと言えてたね」
「はい」
遥は少し間を置いた。
「それだけ?」と言った。
声が、いつもより静かだった。
その一言の意味が、すぐにはわからなかった。
それだけ、とはどういう意味か。チームメイト、監督、クラブ、協会、ファン。感謝すべき人たちへの感謝は全部言った。
全部、言ったつもりだった。
「……何か、足りなかったですか」
遥は答えなかった。
窓の外を見たまま、シャンパングラスを一口飲んだ。
しばらくして「なんでもない」と言った。
「本当に?」
「うん」と遥は笑った。「本当になんでもない。ただのひとりごと」
そのままパーティに戻っていった。
拓人はしばらず窓の外を見ていた。
パリの夜が広がっていた。エッフェル塔が光っていた。
何かが引っかかっていた。
でも何が引っかかっているのか、その時はわからなかった。
ホテルに戻ったのは深夜だった。
遥はシャワーを浴びて、先に眠っていた。
川口から節子にビデオ通話した。航太が画面の中で笑っていた。
「泣いてましたか」
「最初だけ」と節子は言った。「今は元気よ」
航太が画面に手を伸ばしてきた。何かを掴もうとしていた。
「また明日ね」と節子が言って、通話が切れた。
拓人はベッドの横に座って、トロフィーを見た。
金色の球体。ずっしりと重い。
何かが引っかかっていた。
スピーチを思い返した。
チームメイト。監督。クラブ。協会。ファン。
誰かが足りない気がした。
誰だ。
ゆっくりと、考えた。
ドルトムントに来た冬。一人でビールとケチャップだけで生きていた時期。遥が来て、献立表を作って、弁当を作って、体が戻って、言葉が聞き取れるようになって、ゴールが生まれた。
ワールドカップの前夜、眠れない拓人の隣で、遥は黙って起きていた。何も言わなかった。ただ隣にいた。
シーズン中、拓人が遠征に出るたびに、遥は一人でアパートにいた。知り合いもいない、言葉も十分には通じない、ドルトムントの街で。航太を一人で育てながら。
誰かが足りない。
わかった。
遥だ。
スピーチで、遥への感謝を一言も言っていなかった。
航太への言葉も、一言もなかった。
翌朝、遥が朝食を作っていた。
パリのホテルの部屋で、持参した調味料と近所で買った食材で、いつも通りの朝食を作っていた。スクランブルエッグとスープとトーストとサラダ。
「おはよう」と遥は言った。
「おはよう」
「よく眠れた?」
「あまり」
「そっか」
皿が並んだ。二人でテーブルに着いた。
「昨日」と拓人は言った。
「うん」
「スピーチで、遥のことを言わなかった。航太のことも」
遥は食べる手を止めなかった。
「うん」
「気づいてなかった。言わなかったことに」
「うん」
「ごめん」
遥はスープを一口飲んだ。
少し間を置いた。
「ひとつだけ聞いていい?」
「はい」
「今、なんで気づいたの」
「昨夜、ずっと考えてました」
「そっか」
また黙った。
窓の外にパリの朝が広がっていた。昨夜のエッフェル塔とは違う、白い光の朝だった。
「ありがとう」と遥は言った。
「謝ってるのに、なんでお礼を言うんですか」
「気づいてくれたから」
それだけだった。
遥は朝食を食べ続けた。拓人も食べた。
二人で、パリの朝食を食べた。
窓の外に、白い空が広がっていた。
後から知ったことがある。
あの夜のことを、遥は日記に書いていた。
「スピーチ、聞いてた。チームへの感謝、クラブへの感謝、全部言えてた。でも私のことは一言もなかった。航太のことも。嬉しい、悲しい、誇らしい、怖い。全部が混ざって泣いた。拓人のせいじゃない。これが拓人だとわかってて一緒にいることを選んだのは、私だから。でも泣いた。なんで泣いたんだろう。たぶん、ずっとそばにいたかったんだと思う。スピーチに名前が出るとか出ないとかじゃなくて。ただ、ずっとそばにいたかった」
拓人がその日記を読んだのは、遥が死んだ後だった。
バロンドールの授賞式から、何年も経っていた。
◆次話予告◆
レアル・マドリーへの移籍が決まった年、航太は4歳になっていた。
「パパ、また引っ越すの?」と航太が聞いた。
遥が誕生日を忘れられ続けた話は、もう少し後のことだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




