第11話 花束と誕生日
レアル・マドリーに移籍したのは、25歳の時だった。
ドルトムントでの4年間で、全部手に入れた気がしていた。ブンデスリーガ得点王、欧州三冠、バロンドール、ワールドカップ得点王。これ以上何があるんだと思っていた。
レアルのオファーが来た時、代理人が興奮した声で電話してきた。「史上最高額です」「夢のクラブです」「断る理由がありません」。
拓人は遥に話した。
「どうする?」と遥は聞いた。
「行きたい」
「じゃあ行こう」
それだけだった。
遥はドルトムントに未練があったと思う。4年かけて作った生活があった。近所のスーパーの特売日を知っていた。行きつけのパン屋があった。公園の場所を知っていた。航太がよく遊ぶ砂場があった。
でも「じゃあ行こう」と言った。
それだけだった。
マドリードの生活は、ドルトムントと全然違った。
空が青かった。太陽が出ていた。街が明るくて、人が多くて、夜中でも賑やかだった。
遥は最初の一週間、毎日近所を歩き回った。スーパーを探して、薬局を探して、公園を探した。航太の幼稚園を探した。
「マドリードはどうですか」
「広い」と遥は言った。「ドルトムントより、ずっと広い」
「慣れますか」
「慣れる」と遥は言った。即答だった。「どこでも慣れる。拓人がいるから」
レアルの最初のシーズンは、順調だった。
チームのレベルが違った。周りの選手が全員代表クラスで、パスの質が違う。受けてから考える必要がない。来る前から、次の動きがわかる。
サッカーが楽しかった。
ゴールを決めるたびに、スタジアムが揺れた。ベルナベウの9万人が、拓人の名前を呼んだ。
その声を聞くたびに、遥に報告したかった。
でも試合中は電話できない。
試合後、ロッカールームを出ると、遥からメッセージが来ていた。
「見てたよ。よかった」
それだけだった。
でもそれで十分だった。
レアルに来て、2年目の春だった。
遥の誕生日が近づいていた。
近づいていた、というのは正確じゃない。
気づいたら過ぎていた。
試合が続いていた。アウェー遠征が重なっていた。頭の中がチームの戦術と次の試合の分析でいっぱいだった。
遥の誕生日は、4月の14日だ。
気づいたのは、4月の17日だった。
3日過ぎていた。
遥から何も言ってこなかった。メッセージもなかった。いつも通り「よかった」「見てたよ」「気をつけてね」だけだった。
拓人はしばらく、スマートフォンを見つめた。
どうすればいいかわからなかった。謝るべきか。でも謝るタイミングが3日も過ぎている。花を買うべきか。でもマドリードにいて、遥はドルトムント——いや、もうマドリードか。
「ごめん」とメッセージを送った。
しばらくして「何が?」と返ってきた。
「誕生日」
既読がついた。返信が来なかった。
10分後、「いいよ」と来た。
よくなかった。絶対によくなかった。でも遥は「いいよ」と言った。
翌年も、忘れた。
今度は5日過ぎてから気づいた。
去年より悪かった。
「ごめん」と送った。
「また?」と返ってきた。
「また」
しばらく既読がつかなかった。
20分後に「いいよ」と来た。
去年より、短かった。
3年目の春、航太が7歳になっていた。
4月の13日、夕食の時に航太が言った。
「パパ、明日ママの誕生日だよ」
拓人は箸を止めた。
「知ってる」
知らなかった。
完全に忘れていた。また忘れていた。
でも航太が教えてくれた。前日に。
遥がキッチンで食器を洗っていた。背中を向けていた。何も言わなかった。
拓人は航太を見た。
航太が真剣な顔で「明日だよ」と繰り返した。
この子は、ちゃんと覚えていた。
翌朝、遥が起きてくる前に家を出た。
花屋を探した。マドリードの街を歩いた。朝の7時で、まだ開いていない店が多かった。
15分歩いて、開いている花屋を見つけた。
「薔薇をください」と言った。
「何本?」と店員が聞いた。
「全部」
店員が少し固まった。
「全部というのは」
「全部です。あるだけ全部」
その日の朝、花屋にあった薔薇は43本だった。全部買った。
抱えて帰った。マドリードの朝の街を、薔薇を43本抱えた男が歩いた。通りすがりの人が振り返った。
アパートに戻ると、遥がキッチンに立っていた。
朝食を作っていた。
拓手が玄関を開けた瞬間、遥が振り返った。
43本の薔薇を見た。
何も言わなかった。
3秒くらい、固まっていた。
それから「なに、それ」と言った。
「誕生日おめでとう」
遥はまた黙った。
「今日だよ」と拓人は言った。「忘れてない」
「昨日まで忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「嘘つかなくていいよ」
声に笑いが混じっていた。
「航太に教えてもらった」
遥はしばらく黙った。それから肩が揺れた。
笑っていた。
声を立てて笑っていた。
「バレバレじゃん」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」と遥は言った。笑いながら。「でも」
「でも?」
「薔薇、多くない?」
「あるだけ全部買いました」
「何本?」
「43本」
遥はまた笑った。今度はもっと大きく笑った。
キッチンから出てきて、43本の薔薇を受け取った。
「重い」
「すみません」
「でもありがとう」
遥は薔薇を抱えたまま、花瓶を探し始めた。43本が入る花瓶は家になかった。バケツを持ってきて、水を入れて、そこに全部突っ込んだ。
リビングの真ん中に、薔薇のバケツが置かれた。
「なにこれ」と航太が起きてきて言った。
「パパが買ってきた」と遥は言った。
航太が拓人を見た。
「誕生日、覚えてたの?」
「覚えてた」
航太は少し考えてから「ふーん」と言って、自分の部屋に戻っていった。
遥が笑った。
「バレてる」
「知ってます」
その夜、子供たちが寝た後、遥が言った。
「ねえ」
「はい」
「誕生日、毎年忘れるじゃん」
「すみません」
「謝らなくていい」と遥は言った。「ただ、一個だけ言っていい?」
「はい」
「忘れてもいいけど、気づいた時に全力で取り戻そうとするのは、好きだよ」
「薔薇43本が?」
「薔薇43本が」と遥は笑った。「プロポーズの時も薔薇こぼしてたし、拓人って薔薇との相性が悪いよね」
「そうですね」
「でもそういうところが」
遥は少し間を置いた。
「好きだから、仕方ない」
リビングの真ん中に、バケツに突っ込まれた43本の薔薇があった。
お世辞にも綺麗な飾り方じゃなかった。でも遥は翌朝もその薔薇を見て、笑っていた。
後から知ったことがある。
あの頃のことを、遥は日記に書いていた。
「また忘れてた。3年連続。でも今年は航太が教えてくれた。そして拓人が薔薇を43本買ってきた。全部買ったらしい。バカみたいで、でも嬉しかった。忘れるのは悲しい。でも全力で取り戻そうとする人を、嫌いになれない。これが拓人だから。仕方ない」
仕方ない、が遥の口癖だった。
諦めの仕方ない、じゃない。
受け入れる仕方ない。
その違いを、拓人がわかるようになったのは、遥が死んだ後だった。
◆次話予告◆
レアルでの8年間で、拓人はゲームキャプテンを務めるまでになった。
でも家に帰ると、相変わらず遥が献立表を作っていて、航太が宿題をしていて、葵が絵を描いていた。
欧州を制した夜、病院から電話が来るまで、その日常が続くと思っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




