第12話 マドリードの日常
レアルでの日常は、非日常の連続だった。
ベルナベウでの試合。UCLのアウェー遠征。オフシーズンは世界各国に遠征して親善試合。記者会見。スポンサーイベント。年間を通じて、空白の週がほとんどない。
それでも家に帰ると、遥が献立表を作っていた。
その横で、航太が宿題を、葵は絵を描いていた。
そうしたギャップが、最初は不思議だった。
世界最高峰のクラブで、世界最高峰の選手たちと戦っている男が、家に帰ると子供の宿題を見ている。
でも慣れると、そのギャップが当たり前になった。
当たり前になりすぎて、大切なことを忘れていた。
葵が生まれたのは、レアル移籍2年目の秋だった。
遥のお腹が大きくなり始めた時、航太が毎日お腹に話しかけていた。
「今日ね、パパが練習から帰ってきたよ」
「今日のご飯はね、ハンバーグだったよ」
「早く出てきてね」
遥が「航太、優しいね」と言った。
航太は「べつに」と言って、自分の部屋に戻っていった。
葵が生まれた夜、拓人は立ち会えた。
今度は手順を知っていた。頭を支えて、こうして、ああして。
抱いた瞬間、航太の時と同じ感覚があった。
軽い。こんなに軽いのに、全部ある。
「葵」と遥が言った。「糸井葵」
葵は目を開けなかった。ただ、小さな手を動かした。
拓人の指に触れた。
反射的に、握った。
小さな手が、拓人の指を握り返した。
マドリードでの子育ては、川口とも、ドルトムントとも違った。
言語がスペイン語になった。航太は現地の学校に通い始めて、半年でスペイン語を話すようになった。子供は早い、と遥は言った。
葵は赤ん坊だったので関係なかった。ただ、よく笑った。航太が顔を近づけると笑った。拓人が名前を呼ぶと笑った。遥が歌うと笑った。
遥は「この子、笑顔が武器だね」と言った。
確かにそうだった。葵が笑うと、家の空気が変わった。
レアルでの日常には、リズムがあった。
試合前日は軽い調整練習。試合当日の朝は遥が作った決まった朝食。試合後は家族と食事。
そのリズムを、遥が作っていた。
遥が献立表を作るのは続いていた。マドリードに来てから、日本食の食材を手に入れるのが難しくなったが、遥は近所のアジア系スーパーを見つけて、日本の調味料を手に入れていた。
「よく見つけましたね」
「歩き回った」と遥は言った。「マドリードって広いから、3日かかった」
「3日も歩いたんですか」
「航太と葵を連れて」
「大変じゃなかったですか」
「楽しかった」と遥は言った。「知らない街を歩くのは好き」
レアル5年目、拓人はゲームキャプテンを任された。
クラブの監督から呼ばれた。
「お前はこのチームの中心だ。キャプテンマークをつけてくれ」
通訳を通して言われた。
「わかりました」と答えた。
家に帰って、遥に話した。
「キャプテンになった」
遥は夕食の準備をしていた。手を止めずに「そっか」と言った。
「嬉しくないですか」
「嬉しいよ」と遥は言った。振り返らずに。「でも拓人が変わるわけじゃないから」
「どういうことですか」
「キャプテンマークをつけても、帰ってきたら同じ拓人でしょ」
「そうですね」
「だったらいつも通り」
遥はまた料理を続けた。
航太がリビングで「パパ、キャプテンになったの?」と聞いた。
「なった」
「ふーん」と航太は言って、また宿題に戻った。
葵が「かっこいい」と言った。
「ありがとう」
「でもパパはいつもかっこいい」と葵は言った。
遥が「おだてても何も出ないよ」と言った。
葵が「えー」と言った。
その夜の食卓が、いつも通りだった。
世界最高峰のクラブのゲームキャプテンになった夜の食卓が、いつも通りだった。
それが、拓人には一番よかった。
レアル8年目の春、拓人は33歳になっていた。
航太は12歳。中学生になっていた。
葵は8歳。小学3年生だった。
遥は33歳。白髪が一本も生えていなかった。
マドリードの生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語も話せるようになっていた。近所のカフェの店員と世間話ができるくらいには。
その春、遥のお腹がまた大きくなり始めた。
「3人目」と遥は言った。夕食の後、テーブルで向かい合って。
「本当ですか」
「本当」
航太が「え」と言った。
葵が「赤ちゃん?」と言って、目を輝かせた。
遥が笑った。
「女の子だと思う」
「まだわからないでしょう」と拓人は言った。
「わかる。母親だから」
妊娠中の遥は、今回も変わらなかった。
献立表を作り続けた。弁当を作り続けた。近所を歩き回り続けた。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
疲れやすくなった。
夕食後、早く眠るようになった。以前は夜の11時まで起きていたのに、9時には寝ていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」と遥はいつも言った。「年のせいかな」
「年のせいじゃないです。33歳です」
「3人目だから体が重いだけ」
「無理しないでください」
「してない」
それ以上言えなかった。
6月、UCL決勝の2週間前だった。
遥が珍しく、昼間から横になっていた。
帰宅した拓人がリビングに入ると、ソファで遥が目を閉じていた。
航太が台所でお茶を作っていた。
「ママ、調子悪いみたい」と航太は言った。声が低かった。
「いつから?」
「昨日から」
拓人は遥のそばに座った。
「遥」
目を開けた。
「ただいま」と拓人は言った。
「おかえり」と遥は言った。声がいつもより細かった。
「病院に行きますか」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう」
「妊娠中だから体が重いだけ」
「検査だけでもいいです」
遥はしばらく黙った。
「じゃあ、明日」
翌日、病院に行った。
検査を受けた。
結果は、3日後に出ると言われた。
UCL決勝まで、10日を切っていた。
拓人の頭の中は、試合のことでいっぱいだった。相手の戦術、布陣、キープレーヤー。毎晩映像を見て、毎朝チームメイトと確認した。
検査結果のことは、頭の隅にあった。
でも試合のことが前に出た。
いつも試合のことが前に出た。
それが拓人という人間だった。
検査結果が出た日、拓人はアウェー遠征中だった。
遥から「結果出た」とメッセージが来た。
「どうでしたか」
返信が来なかった。
30分後に「帰ってきてから話す」と来た。
嫌な予感がした。
でも試合があった。
試合に出た。ゴールを決めた。チームが勝った。
ロッカールームでルカが「お前、今日切れてたな」と言った。
「ありがとう」と言った。
スマートフォンを確認した。
遥からのメッセージは、それ以上来ていなかった。
マドリードに戻ったのは、翌日の昼だった。
空港から直接家に帰った。
玄関を開けると、遥がリビングにいた。
ソファに座って、窓の外を見ていた。
航太と葵は学校だった。
静かだった。
「ただいま」
「おかえり」
遥は窓の外を見たまま言った。
振り返らなかった。
拓人はソファの隣に座った。
遥がゆっくり振り返った。
いつもの顔だった。穏やかで、口数が少なくて、感情を表に出さない顔。
でも目が、少し違った。
「話があるんだけど」と遥は言った。
「はい」
「落ち着いて聞いてね」
外で鳥が鳴いた。マドリードの青い空が、窓の向こうに広がっていた。
「膵臓に、影があった」
◆次話予告◆
欧州を制した夜、拓人はビッグイヤーを掲げた。
その夜、病院から電話が来た。
物語は、ここに戻ってくる。
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