表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/32

第12話 マドリードの日常

レアルでの日常は、非日常の連続だった。


ベルナベウでの試合。UCLのアウェー遠征。オフシーズンは世界各国に遠征して親善試合。記者会見。スポンサーイベント。年間を通じて、空白の週がほとんどない。


それでも家に帰ると、遥が献立表を作っていた。

その横で、航太が宿題を、葵は絵を描いていた。


そうしたギャップが、最初は不思議だった。

世界最高峰のクラブで、世界最高峰の選手たちと戦っている男が、家に帰ると子供の宿題を見ている。

でも慣れると、そのギャップが当たり前になった。


当たり前になりすぎて、大切なことを忘れていた。


葵が生まれたのは、レアル移籍2年目の秋だった。


遥のお腹が大きくなり始めた時、航太が毎日お腹に話しかけていた。


「今日ね、パパが練習から帰ってきたよ」


「今日のご飯はね、ハンバーグだったよ」


「早く出てきてね」


遥が「航太、優しいね」と言った。


航太は「べつに」と言って、自分の部屋に戻っていった。


葵が生まれた夜、拓人は立ち会えた。


今度は手順を知っていた。頭を支えて、こうして、ああして。


抱いた瞬間、航太の時と同じ感覚があった。


軽い。こんなに軽いのに、全部ある。


「葵」と遥が言った。「糸井葵」


葵は目を開けなかった。ただ、小さな手を動かした。


拓人の指に触れた。


反射的に、握った。


小さな手が、拓人の指を握り返した。


マドリードでの子育ては、川口とも、ドルトムントとも違った。


言語がスペイン語になった。航太は現地の学校に通い始めて、半年でスペイン語を話すようになった。子供は早い、と遥は言った。


葵は赤ん坊だったので関係なかった。ただ、よく笑った。航太が顔を近づけると笑った。拓人が名前を呼ぶと笑った。遥が歌うと笑った。


遥は「この子、笑顔が武器だね」と言った。


確かにそうだった。葵が笑うと、家の空気が変わった。


レアルでの日常には、リズムがあった。


試合前日は軽い調整練習。試合当日の朝は遥が作った決まった朝食。試合後は家族と食事。


そのリズムを、遥が作っていた。


遥が献立表を作るのは続いていた。マドリードに来てから、日本食の食材を手に入れるのが難しくなったが、遥は近所のアジア系スーパーを見つけて、日本の調味料を手に入れていた。


「よく見つけましたね」


「歩き回った」と遥は言った。「マドリードって広いから、3日かかった」


「3日も歩いたんですか」


「航太と葵を連れて」


「大変じゃなかったですか」


「楽しかった」と遥は言った。「知らない街を歩くのは好き」


レアル5年目、拓人はゲームキャプテンを任された。


クラブの監督から呼ばれた。


「お前はこのチームの中心だ。キャプテンマークをつけてくれ」


通訳を通して言われた。


「わかりました」と答えた。


家に帰って、遥に話した。


「キャプテンになった」


遥は夕食の準備をしていた。手を止めずに「そっか」と言った。


「嬉しくないですか」


「嬉しいよ」と遥は言った。振り返らずに。「でも拓人が変わるわけじゃないから」


「どういうことですか」


「キャプテンマークをつけても、帰ってきたら同じ拓人でしょ」


「そうですね」


「だったらいつも通り」


遥はまた料理を続けた。


航太がリビングで「パパ、キャプテンになったの?」と聞いた。


「なった」


「ふーん」と航太は言って、また宿題に戻った。


葵が「かっこいい」と言った。


「ありがとう」


「でもパパはいつもかっこいい」と葵は言った。


遥が「おだてても何も出ないよ」と言った。


葵が「えー」と言った。


その夜の食卓が、いつも通りだった。


世界最高峰のクラブのゲームキャプテンになった夜の食卓が、いつも通りだった。


それが、拓人には一番よかった。


レアル8年目の春、拓人は33歳になっていた。


航太は12歳。中学生になっていた。


葵は8歳。小学3年生だった。


遥は33歳。白髪が一本も生えていなかった。


マドリードの生活にすっかり馴染んでいた。スペイン語も話せるようになっていた。近所のカフェの店員と世間話ができるくらいには。


その春、遥のお腹がまた大きくなり始めた。


「3人目」と遥は言った。夕食の後、テーブルで向かい合って。


「本当ですか」


「本当」


航太が「え」と言った。


葵が「赤ちゃん?」と言って、目を輝かせた。


遥が笑った。


「女の子だと思う」


「まだわからないでしょう」と拓人は言った。


「わかる。母親だから」


妊娠中の遥は、今回も変わらなかった。


献立表を作り続けた。弁当を作り続けた。近所を歩き回り続けた。


ただ、一つだけ変わったことがあった。


疲れやすくなった。


夕食後、早く眠るようになった。以前は夜の11時まで起きていたのに、9時には寝ていた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」と遥はいつも言った。「年のせいかな」


「年のせいじゃないです。33歳です」


「3人目だから体が重いだけ」


「無理しないでください」


「してない」


それ以上言えなかった。


6月、UCL決勝の2週間前だった。


遥が珍しく、昼間から横になっていた。


帰宅した拓人がリビングに入ると、ソファで遥が目を閉じていた。


航太が台所でお茶を作っていた。


「ママ、調子悪いみたい」と航太は言った。声が低かった。


「いつから?」


「昨日から」


拓人は遥のそばに座った。


「遥」


目を開けた。


「ただいま」と拓人は言った。


「おかえり」と遥は言った。声がいつもより細かった。


「病院に行きますか」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないでしょう」


「妊娠中だから体が重いだけ」


「検査だけでもいいです」


遥はしばらく黙った。


「じゃあ、明日」


翌日、病院に行った。


検査を受けた。


結果は、3日後に出ると言われた。


UCL決勝まで、10日を切っていた。


拓人の頭の中は、試合のことでいっぱいだった。相手の戦術、布陣、キープレーヤー。毎晩映像を見て、毎朝チームメイトと確認した。


検査結果のことは、頭の隅にあった。


でも試合のことが前に出た。


いつも試合のことが前に出た。


それが拓人という人間だった。


検査結果が出た日、拓人はアウェー遠征中だった。


遥から「結果出た」とメッセージが来た。


「どうでしたか」


返信が来なかった。


30分後に「帰ってきてから話す」と来た。


嫌な予感がした。


でも試合があった。


試合に出た。ゴールを決めた。チームが勝った。


ロッカールームでルカが「お前、今日切れてたな」と言った。


「ありがとう」と言った。


スマートフォンを確認した。


遥からのメッセージは、それ以上来ていなかった。


マドリードに戻ったのは、翌日の昼だった。


空港から直接家に帰った。


玄関を開けると、遥がリビングにいた。


ソファに座って、窓の外を見ていた。


航太と葵は学校だった。


静かだった。


「ただいま」


「おかえり」


遥は窓の外を見たまま言った。


振り返らなかった。


拓人はソファの隣に座った。


遥がゆっくり振り返った。


いつもの顔だった。穏やかで、口数が少なくて、感情を表に出さない顔。


でも目が、少し違った。


「話があるんだけど」と遥は言った。


「はい」


「落ち着いて聞いてね」


外で鳥が鳴いた。マドリードの青い空が、窓の向こうに広がっていた。


「膵臓に、影があった」


◆次話予告◆


欧州を制した夜、拓人はビッグイヤーを掲げた。


その夜、病院から電話が来た。


物語は、ここに戻ってくる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現代ドラマ ヒューマンドラマ スポーツ サッカー 家族 感動 シングルファーザー 育児 涙腺崩壊注意 実話風 成長物語 Jリーグ 海外サッカー 父と子 泣ける ノンファンタジー 元プロサッカー選手 レアル・マドリード 浦和レッズ 埼玉 川口
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ