第13話 影
膵臓に、影があった。
その言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
影、という言葉が、頭の中でしばらく浮いていた。影。膵臓の影。それが何を意味するのか、わかっていた。でもわかりたくなかった。
「精密検査が必要だって」と遥は言った。
「いつですか」
「明後日」
「一緒に行きます」
「試合は?」
「関係ない」
遥は少し黙った。
「関係あるでしょ」
「ない」
遥は窓の外を見た。マドリードの青い空が広がっていた。
「拓人」
「はい」
「UCL決勝まで、あと何日?」
「10日」
「じゃあ、精密検査だけ一緒に来て。結果が出るのは1週間後だから、試合が終わってから話し合おう」
「でも——」
「お願い」
遥が「お願い」と言うのは、珍しかった。
拓人は黙った。
---
精密検査の日、二人で病院に行った。
待合室で待った。遥は雑誌を読んでいた。本当に読んでいるのか、読むふりをしているのかわからなかった。でも何も言わなかった。
検査が終わって、帰り道、二人でカフェに寄った。
遥がカフェオレを頼んだ。拓人はエスプレッソを頼んだ。
「美味しい」と遥は言った。
「そうですか」
「マドリードのカフェ、好きなんだよね。川口にはない感じ」
「帰ったら、似た店を探します」
遥は少し笑った。
「帰る気満々だね」
「帰ります」
「そっか」
コーヒーを飲んだ。窓の外を路面電車が通った。マドリードの午後だった。
「ねえ」と遥は言った。
「はい」
「結果がどうであれ、試合には出てね」
「そんなことより——」
「そんなことじゃない」と遥は言った。声が静かだった。でも芯があった。「拓人のサッカーを見たい。UCL決勝、ベルナベウじゃないんでしょ」
「ウェンブリーです」
「ウェンブリー」と遥は繰り返した。「サッカーの聖地だね」
「そうです」
「行きたかったな」と遥は言った。
小さな声だった。
「行けます」
「お腹が大きいから難しいかな」
「航太と葵と一緒に、テレビで見てて」
「うん」と遥は言った。「そうする」
---
結果が出る前の1週間、拓人は練習に出続けた。
遥が「普通にしてて」と言ったから。
でも普通にできなかった。
練習中、頭のどこかが常にマドリードの家のことを考えていた。遥のこと。お腹の子のこと。影、という言葉のこと。
ルカが「どうした」と言った。
「なんでもない」
「嘘つくな。今週ずっとそんな顔してる」
「家のことで、少し」
ルカは頷いた。
「家族のことなら、家族を優先しろ」
「でも試合が——」
「試合はチームでやる。でも家族はお前しかいない」
その言葉が、頭に残った。
---
結果が出たのは、UCL決勝の5日前だった。
病院から遥に電話が来た。
拓人は練習から帰ると、遥がリビングのソファに座っていた。
航太と葵は、どこかに連れ出されていた。節子が来ていた。
節子が台所に立っていた。拓人を見て、頷いた。
嫌な予感が、確信になった。
遥の隣に座った。
「結果、出た」と遥は言った。
「はい」
「膵臓ガン」
部屋が、静かだった。
「ステージ4」
台所で節子が動く音がした。それ以外は何も聞こえなかった。
「転移は?」
「肝臓に少し」
拓人は膝の上に置いた手を見た。
「治療は?」
「抗ガン剤か、手術か」
「すぐ始めるべきです」
「うん」と遥は言った。「でも」
「でも?」
遥はお腹に手を当てた。
拓人はその手を見た。
「抗ガン剤は、お腹の子に影響が出る」
「それは」
「8ヶ月になってる。産むまで、あと2ヶ月かからない」
「でも2ヶ月待ったら——」
「うん」
遥は静かに言った。
「リスクがある。先生にも言われた。でも」
また、お腹を撫でた。
「この子に会いたい」
拓人は遥の顔を見た。
穏やかだった。決めた人間の顔だった。
「まだ決めなくていいです」
「決めた」
「遥——」
「決めた」と遥は繰り返した。今度は少し強かった。「この子に、パパの顔を見せてあげたい。それだけ」
台所の音が止まった。
節子が泣いているのかもしれなかった。
「俺は」と拓人は言いかけた。
言葉が出なかった。
お前の命の方が大事だと言いたかった。治療してくれと言いたかった。でも遥の顔を見ると、言えなかった。
この顔は、決めた顔だ。
10年以上一緒にいたから、わかる。
遥が決めた時の顔を、拓人は知っていた。
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「試合、出てね」と遥は言った。
「そんな話じゃない」
「そんな話だよ」と遥は言った。「UCL決勝でしょ。出なかったら後悔する」
「後悔しない」
「する」と遥は言った。断言した。「私が後悔させる」
拓人は遥の顔を見た。
遥は笑っていた。
泣いていなかった。
「行ってきて」
「でも——」
「行ってきて」と遥はもう一度言った。「ウェンブリーで、いいプレーして。私と航太と葵と、お腹の子が見てるから」
窓の外でマドリードの夕日が沈んでいた。
オレンジ色の光が、部屋の中に差し込んでいた。
遥の顔が、その光の中にあった。
拓人は何も言えなかった。
ただ、遥の手を握った。
遥は握り返した。
お腹の子が動いた。
二人とも、それを感じた。
何も言わなかった。
ただ、その動きを感じていた。
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UCL決勝の朝、拓人は遥に言った。
「行ってきます」
「うん」と遥は言った。「行ってらっしゃい」
「見てて」
「見てる」
「絶対に」
「絶対に」と遥は笑った。「ゴール決めてね」
航太が「パパ、頑張れ」と言った。
葵が「絶対勝ってね」と言った。
遥のお腹が、また動いた。
拓人はそのお腹に、一度だけ手を当てた。
何も言わなかった。
遥も何も言わなかった。
玄関を出た。
振り返らなかった。
振り返ったら、行けなくなる気がした。
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ウェンブリーのピッチに立った時、9万人の声が降り注いできた。
でも拓人の耳には、遥の声だけが聞こえていた。
ゴール決めてね。
前半32分、右足を振り抜いた。
弾丸のようなシュートがサイドネットを揺らした。
スタンドが爆発した。
コーナーフラッグの前で膝をついた。芝の匂いがした。
遥が見ている。
航太が見ている。
葵が見ている。
お腹の子が、見ている。
試合は1-0で終わった。
ビッグイヤーを掲げた夜、スマートフォンが鳴った。
奥村病院。
遥が入院している病院だ。
◆次話予告◆
物語は、ここから始まる。
第1話で鳴った電話の意味を、読者の皆さまはここで知る。
そして第14話へ——回想が終わり、現在に戻る。
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