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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第14話 回想、終わり

奥村病院に着いたのは、翌朝だった。


成田から電車を乗り継いで、タクシーに乗った。シャンパンで濡れたユニフォームのまま、着替える時間もなかった。


受付で名前を告げると「お待ちしていました」と言われた。


待っていた。


その言葉の重さを、廊下を歩きながら考えた。


---


担当医は四十代くらいの男だった。


落ち着いた声で、丁寧に説明してくれた。


膵臓ガン。ステージ4。すでに肝臓への転移が確認されている。発見からここまで、2ヶ月が経過している。


「治療を開始すれば——」


「治療はしません」


遥の声だった。


振り返ると、ベッドの上に遥が座っていた。大きなお腹を抱えて、背筋をまっすぐ伸ばして。点滴の管が左腕に繋がっていた。顔色は悪かった。でも目は、澄んでいた。


「先生、席を外していただけますか」


担当医が静かに部屋を出た。ドアが閉まった。


二人きりになった。


---


「聞いてた?」と遥が言った。


「ああ」


「どこから?」


「全部」


遥は少し笑った。


「治療、しないのか」


「うん」


「なんで」


「この子がいるから」


お腹に手を当てた。ゆっくりと、確かめるように。


「抗ガン剤を使ったら、お腹の子に影響が出る。産んだ後で治療を始めても、もう手遅れかもしれない。それでも、産む」


「でも——」


「拓人」


静かな声だった。


遥が拓人を見た。その目を見た瞬間、何も言えなくなった。


「この子に、パパの顔を見せてあげたい」


部屋が、静かだった。


廊下を誰かが歩く足音がした。どこかで赤ん坊が泣いていた。窓の外で、鳥が鳴いた。


それだけだった。


「俺は」と拓人は言いかけて、止まった。


何を言えばいい。治療しろと言うのか。お前の命の方が大事だと言うのか。でも遥はもう決めている。この顔は、決めた顔だ。


「俺のことは、いいのか」


我ながら、情けない言葉だと思った。


遥は少し考えてから、言った。


「拓人、ちゃんとパパできる?」


「できる」


即答した。


遥はまた笑った。今度は少し意地悪な笑い方で。


「本当に? オムツ、替えたことある?」


「……ない」


「離乳食、作れる?」


「作れない」


「保育園の申し込み、どうやるか知ってる?」


「知らない」


遥の笑顔が、深くなった。


「じゃあ、頑張らないとね」


---


拓人は絶叫した。


後から考えると、みっともなかったと思う。病院の個室で、33歳の男が声を上げて泣いた。看護師が驚いて飛び込んできた。遥が「大丈夫です」と笑いながら追い返した。


それでも止まらなかった。


遥は何も言わなかった。ただ、点滴の管が繋がった左手で、拓人の手を握っていた。


どのくらいそうしていたか、わからない。


泣き止んだ後、拓人は遥の手を握ったまま、床に座り込んだ。ベッドのわきに。


「怖くないのか」と聞いた。


「怖い」と遥は言った。「めちゃくちゃ怖い。毎日怖い。夜中に目が覚めて、泣いてる。でもね」


お腹を、また撫でた。


「この子が動くたびに、怖くなくなる。不思議でしょ」


拓人には、何も言えなかった。


「航太と葵のこと、頼むね」


「ああ」


「結衣って名前にしようと思ってる。女の子だから」


「まだ性別、わかってないだろ」


「わかる。母親だから」


根拠のない自信だった。でも遥が言うと、本当のことみたいに聞こえた。


「結衣」と拓人は繰り返した。


「うん。糸井結衣。糸と糸が結ばれるみたいで、いいと思って」


窓から差し込む光が、遥のお腹の上で揺れていた。


---


航太と葵に話したのは、その日の夕方だ。


奥村家のリビング。義父の誠は黙ったままソファに座っていた。義母の節子は台所で何かを作りながら、時々鼻をすする音がした。


航太は最初、無表情だった。


拓人が話し終えた後、しばらく黙って、それから言った。


「ママは死ぬの?」


「……わからない。でも、覚悟はしておかないといけない」


航太はまた黙った。


葵は泣いた。


声を上げて、子供らしく泣いた。節子が台所から飛んできて、抱きしめた。葵の泣き声が部屋に響いた。


拓人は何もできなかった。


ただ、その場に立っていた。


そのとき、航太が立ち上がった。


葵の隣に座って、背中をゆっくりと撫でた。


何も言わなかった。ただ、撫で続けた。


拓人は、その背中を見ていた。12歳の息子の背中を。


俺より、ずっとちゃんとしている。


---


結衣が生まれたのは、それから2ヶ月後だった。


帝王切開。手術室の外で、拓人は3時間待った。航太と葵と、三人で並んで待った。誰も話さなかった。


産声が聞こえた瞬間、葵が拓人の手を握った。


結衣は、小さかった。


当たり前だが、こんなに小さいとは思わなかった。看護師に抱かせてもらって、その軽さに驚いた。航太の時も、葵の時も、同じように驚いた。でも今回は違う重さがあった。


遥が命を賭けて産んだ重さだ。


「かわいい」と葵が言った。


「うん」と航太が言った。


拓人は何も言えなかった。


ガラス越しに、遥が笑っていた。疲れ果てた顔で、それでも笑っていた。


---


遥が息を引き取ったのは、出産から3日後の朝だった。


眠るように、静かに。


枕元に、書きかけの家事ノートと日記が残されていた。


拓人はその日記を持って、病院のロビーのソファに座った。


開いた。


最初のページに、こう書いてあった。


「この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから」


日付は、結婚した年だった。


笑えなかった。泣けなかった。ただ、その文字をいつまでも見つめていた。


最後のページを開いた。


「拓人へ。あなたはきっと、どこでも10番よ。サッカーじゃなくても。あなたはいつか、わかる人になる。遅いけど」


遅いけど。


遥は最後まで正直だった。


窓の外で、川口の朝が始まっていた。


普通の朝だった。人が歩いている。バスが走っている。コンビニに客が入っていく。世界は何も変わっていない。


でも俺の世界は、変わった。


終わったんじゃない。


始まるんだ。


遥が命を賭けて繋いだものが、今、俺の手の中にある。


問題は、俺に何もできないことだ。


オムツの替え方も、離乳食の作り方も、針の持ち方も。


何も知らない。


何も、できない。


---


回想が、終わった。


日記を閉じた。


川口の夜が、窓の外に広がっていた。エルザタワーの最上階から見える景色は、マドリードとは全然違う。でもこの景色が、これから俺たちの景色だ。


隣の部屋で、結衣が泣いていた。


立ち上がった。


行かないといけない。


針の持ち方も知らない男が、今夜も父親をやらないといけない。


でもやる。


遥が「頑張らないとね」と言ったから。




◆次話予告◆


葬儀の翌朝、拓人は初めてオムツを替えようとした。


テープがどこについているかすら、わからなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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