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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第15話 崩壊の朝

遥の葬儀は、川口でやった。


遥の両親が仕切ってくれた。義母の節子が業者と交渉して、義父の誠が親戚への連絡を回した。拓人は何もしなかった。できなかった、というより、何をすればいいかわからなかった。


式の間、結衣は節子が抱いていた。


航太は最前列に座って、ずっと前を向いていた。泣かなかった。葵は途中から声を上げて泣いて、それが止まらなくなって、最後は眠ってしまった。


拓人は、遥の顔を見られなかった。


棺の前に立って、白い布に包まれた顔を見ようとした。でも、できなかった。視線が、その手前で止まった。


これが遥じゃない、と思いたかったのかもしれない。


---


葬儀が終わった夜、結衣が泣いた。


夜中の2時に泣き始めて、止まらない。


ミルクをやろうとしたが、缶に書いてある分量が頭に入ってこない。お湯の温度は何度だ。どのくらい冷ませばいい。


結衣は泣き続けた。


節子に電話しようとして、やめた。夜中の2時だ。義母を頼るのは、なんとなく負けな気がした。


YouTubeで「赤ちゃん ミルク 作り方」と検索した。動画が出てきた。見ながら作った。温度を確かめる方法は、手首の内側に垂らすらしい。やってみた。少し熱かった。冷ました。もう一度やった。


結衣に飲ませた。


飲んだ。


泣き止んだ。


なんだ、できるじゃないか——そう思った瞬間、今度はオムツだと気づいた。においがしていた。さっきからしていた。ミルクに必死で、気づかなかった。


オムツを替えようとした。


テープがどこについているか、わからなかった。前と後ろの区別もわからなかった。結衣の足をどう持てばいいかもわからなかった。


5分格闘した。


なんとか替えた。でも明らかに歪んでいた。これでいいのか、わからない。


結衣はまた泣いた。


---


朝の5時、諦めて節子に電話した。


「すみません、起こしてしまって」


「起きてたよ」と節子は言った。嘘かもしれなかった。でもその嘘が、ありがたかった。


「結衣が泣き止まなくて」


「オムツは替えた?」


「替えました。たぶん」


「たぶん?」


「歪んでいるかもしれません」


「すぐ行く」


5分で来た。


玄関を開けると、節子がエプロンを持って立っていた。


結衣を受け取って、オムツを確認して、「逆だよ」と言った。


「逆?」


「前後ろが逆」


そうだったのか。


節子が直してくれた。結衣が泣き止んだ。


「ありがとうございます」


「いいのいいの」と節子は言った。台所に向かいながら。


朝食を作ってくれた。拓人は何も言わなかった。何も言えなかった。


---


航太が起きてきたのは、7時過ぎだった。


リビングに来て、ぐちゃぐちゃになった拓人を見て、一瞬だけ何かを言いかけた。でも何も言わなかった。


台所に入って、冷蔵庫を開けた。


卵を取り出して、フライパンを出した。


節子が「航太くん、いいよ、私がやるから」と言った。


「いい」と航太は言った。


12歳が、黙って朝食を作り始めた。


節子は少し引いて、見守っていた。


拓人も見ていた。


航太の手つきは、慣れていた。卵を割る手が、迷わない。フライパンの火加減を調整する。油の量を確認する。


どこで覚えたんだ。


遥が教えていたのか。それとも見て覚えたのか。


聞けなかった。


葵が起きてきた。


目が赤かった。昨日から泣いていたから、目が腫れている。リビングに入ってきて、結衣を見て、「だっこしていい?」と節子に聞いた。


「拓人さんに聞いて」と節子は言った。


葵が拓人を見た。


「ああ」


葵は結衣を受け取って、ソファに座った。ゆっくり揺らしながら、小さな声で何かを歌い始めた。


遥が葵に教えた歌だった。


結衣が、泣き止んだ。


葵が、笑った。泣き腫らした目で、笑った。


拓人は台所に立って、航太が卵を焼くのを見ていた。葵が結衣をあやしているのを見ていた。


俺は何もしていなかった。


10年間、ずっと。


稼ぐことが愛だと思っていた。欧州で結果を出すことが、家族への責任だと思っていた。遥がいれば、子供たちは大丈夫だと思っていた。


でも遥は、一人でこれを全部やっていた。


三人の子供を育てて、家事をして、海外生活の不安を抱えながら、家事ノートをびっしり書いて、日記には「言っても変わらないから」と書いて。


一人で。


「パパ」


葵の声だった。


「ご飯、食べないの?」


航太が皿を並べていた。卵焼きとご飯と味噌汁。


「食べる」


拓人はテーブルに着いた。


節子が「私はいいから、みんなで食べて」と言って、台所を片付け始めた。


四人で、朝食を食べた。


誰も話さなかった。結衣だけが、葵の腕の中でときどき声を出した。それ以外は静かだった。


でも、静かなだけだった。


壊れてはいなかった。


---


その日の午後、節子が帰った後、拓人は一人でリビングに座った。


航太は自分の部屋に戻っていた。葵は結衣と一緒に眠っていた。


家の中が、静かだった。


遥の家事ノートが、テーブルの上にあった。


昨夜、日記は読んだ。でも家事ノートはまだ開いていなかった。


手を伸ばした。


開いた。


最初のページに、「糸井家・家事ノート」と書いてあった。


めくった。


航太の好きなもの、嫌いなもの。葵のアレルギー。かかりつけの小児科の電話番号。予防接種のスケジュール。保育園の申し込み時期。ゴミの収集日。スーパーの特売日。洗濯物の干し方。緊急連絡先。


そして結衣のページ。


「結衣のミルクの量:120ml(生後1ヶ月)。お湯の温度:70度以上で溶かして、40度まで冷ます。授乳間隔:3時間ごと。夜泣きした時は:まずオムツ確認、次にミルク、それでも泣いたら縦抱きで背中をトントン」


全部、書いてあった。


結衣が生まれてから3日しか経っていないのに、全部書いてあった。


いつ書いたんだ。


病院のベッドで書いたのか。点滴の管を繋いだまま書いたのか。


拓人はページをめくる手を止めた。


最後のページに、こう書いてあった。


「あなたはきっと、どこでも10番よ」


それだけだった。


家事ノートの最後のページに、一言だけ。


拓人はしばらく、その一行を見ていた。


---


夜、子供たちが寝静まった後、拓人はGMに電話した。


「契約を解除してくれ」


「は?」と相手は言った。当然だ。UCLを制した翌週に、10番がそんなことを言うとは思っていない。


「日本に帰る。もう戻れない」


「待ってくれ、話し合おう。条件を——」


「条件の問題じゃない」


電話を切った。


スマートフォンを置いた。


窓の外を見た。川口の夜が広がっていた。荒川の向こうに東京の明かりが見える。


遥がいたら、もっと狭い家でよかったのにと思った。


でも、ここにいる。


この街に、遥の両親がいる。この街に、遥が選んで育った場所がある。この街に、糸井家の「ただいま」がある。


子供たちの寝息が、聞こえた気がした。


結衣が、少しだけ声を出した。


立ち上がった。


行かないといけない。




◆次話予告◆


翌朝、節子がまた来ていた。


台所でお湯を沸かしながら、拓人に言った。


「浦和レッズから、連絡があったよ」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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