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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第16話 エルザタワー

川口に引っ越したのは、葬儀から1週間後だった。


荷物はほとんどなかった。


マドリードの家具は現地に置いてきた。子供たちの荷物と、遥の家事ノートと日記と、拓人のスパイクだけ持ってきた。スパイクを持ってきた理由は、自分でもよくわからなかった。


エルザタワー55。


川口元郷駅から歩いて6分、荒川沿いに建つ55階建てのタワーマンション。最上階のペントハウスを借りた。


不動産屋に「お子さんが4人いらっしゃるなら広い方が」と勧められた。


値段は聞かなかった。


エレベーターで55階まで上がって、玄関のドアを開けた瞬間、葵が「ひろーい」と言って走り込んでいった。航太は黙って中に入った。拓人は結衣を抱いたまま、しばらく玄関に立っていた。


広かった。


本当に広かった。


天井まで続く窓の向こうに、川口の夜景が広がっていた。荒川の向こうに東京の明かりが見える。きれいだと思った。きれいだと思ったが、それだけだった。


遥がいたら、もっと狭い家でよかった。


その夜、子供たちが寝静まった後、拓人はリビングに一人で座っていた。


川口の夜が窓の外に広がっている。騒がしいのに、静かだった。


いや、違う。


俺が、静かすぎるんだ。


結衣の泣き声が聞こえた。立ち上がった。行かないといけない。


翌朝、台所に節子が立っていた。


何も言っていないのに、来ていた。


エプロンをつけて、冷蔵庫を開けて、中身を確認して、「何もないわね」と言った。


「すみません、まだ買い物に」


「いいのいいの」


節子はバッグから食材を取り出し始めた。卵、豆腐、ほうれん草、鮭の切り身。来る前にスーパーに寄ってきたらしい。


「結衣ちゃんは?」


「今、寝てます」


「航太くんと葵ちゃんは?」


「学校です」


「そう」


それだけ言って、節子は料理を始めた。


拓人は何をすればいいかわからなくて、とりあえず「手伝います」と言った。


「じゃあ、ほうれん草洗って」


洗った。


「次、水切って」


切った。


「茹でるから、お湯沸かして」


沸かした。


節子に言われた通りにやっているうちに、朝食ができた。ご飯と味噌汁と焼き鮭とほうれん草のおひたし。遥が作っていたのと、同じような朝食だった。


「食べなさい」


「でも、お義母さんは」


「私はもう食べてきたから」


有無を言わさない口調だった。拓人は座って、食べた。


うまかった。


うまくて、少し泣きそうになった。泣かなかったけど。


浦和レッズへの移籍が発表されたのは、帰国から2週間後だった。


メディアの反応は予想通りだった。


『糸井拓人、電撃帰国の真相』『レアルの10番、まさかの国内移籍』『終わった選手の選択か、新たな挑戦か』


コメント欄は見なかった。見ても意味がないとわかっていたから。


練習初日、チームメイトの目が気になった。リスペクトと警戒が半々くらいの目だ。世界を獲った選手が来た、でもなんで来たんだ、という目。説明する気にはなれなかった。説明できることでもなかった。


とにかくボールを蹴った。


体は正直で、3週間のブランクはほとんど感じなかった。でも何かが違う。集中できているようで、できていない。頭のどこかが、常にエルザタワーのことを考えている。


今頃、結衣は起きたか。節子が来てくれているか。葵は学校でうまくやれているか。


サッカーをしながら、父親をしている。


どっちも中途半端な気がして、練習が終わるたびに疲れ果てた。


帰国から1ヶ月が経った夜のことだ。


結衣を寝かしつけて、航太と葵が宿題をしているのを確認して、拓人はリビングのソファに座った。


葵の体操着袋が、テーブルの上にあった。


入学のときに遥が選んだ、水色の袋。名前を刺繍するためのスペースに、何もない。遥が入院してから、ずっとそのままになっていた。


「パパ」


葵が宿題を持ってきた。


「算数、わからないとこある」


分数の割り算だった。なんとか教えた。葵はわかったようなわからないような顔をして、「ありがとう」と言って戻っていった。


その背中を見ながら、体操着袋が目に入った。


そういえば、と思った。


ピカチュウが好きだと、葵が言っていた。マドリードにいた頃、ビデオ通話で言っていた。「ピカチュウのアップリケ、袋につけたい」と。


遥が「じゃあ今度ね」と言っていた。


今度は、来なかった。


拓人はスマートフォンを取り出した。


検索ワードは「アップリケ 縫い方 初心者」。


動画が出てきた。針の持ち方から説明している動画だ。


針と糸は、節子が置いていってくれた裁縫セットの中にあった。ピカチュウの刺繍ワッペンは、翌日近所の手芸店で買った。


その夜、拓人は初めて針を持った。


動画の通りにやろうとしたが、うまくいかない。糸が絡まる。針が布を貫通しない。なんとか貫通させると、今度は裏側がぐちゃぐちゃになる。


指に針が刺さった。


血が滲んだ。


それでも止めなかった。


遥の日記の一節が頭をよぎった。


この人、糸井なのに、針の持ち方も知らないんだから。


知らなかった。ずっと知らなかった。教わる機会もなかったし、必要だと思ったこともなかった。施設では裁縫を習う時間なんてなかった。遥と出会ってからも、そういうことは全部遥がやってくれた。


でも今は、遥がいない。


針を持ち直した。


動画を巻き戻した。もう一度、最初から見た。


気配がしたのは、夜中の1時を過ぎた頃だった。


振り返ると、義父の誠がパジャマ姿でリビングの入口に立っていた。


鍵は節子が持っている。節子経由で誠も来られるようになっていたが、こんな時間に来たことはなかった。


「すみません、起こしてしまいましたか」


誠は首を横に振った。


何も言わなかった。


ただ、拓人の隣に来て、座った。


テーブルの上を見た。グチャグチャになった糸。歪みかけのピカチュウ。血が少し滲んだ拓人の指。


誠はしばらく黙って見ていた。


それから、無言で手を伸ばした。


拓人の手から、針を取った。


正しい持ち方に、直してくれた。


それだけだった。何も言わなかった。説明もしなかった。ただ、針の持ち方を直して、返してくれた。


拓人は、その手を見た。


職人の手だ。節くれだって、傷だらけで、でも動きに迷いがない。工場で何十年も働いてきた手。遥に似ている、と思った。遥の手も、こんな感じだった。細くて、でも強くて。


「ありがとうございます」


小さく言った。


誠は頷いて、また黙った。


隣に座ったまま、拓人がアップリケを縫うのを見ていた。帰らなかった。何も言わなかった。ただ、隣にいた。


夜中の3時、ピカチュウが完成した。


歪んでいた。耳の形がおかしかった。縫い目がバラバラだった。


でも、ピカチュウだった。


誠が立ち上がった。帰り際、テーブルの上のピカチュウを一度だけ見た。


何も言わなかった。


でも、その目が少しだけ細くなったのを、拓人は見た。


翌朝、葵に渡した。


「パパが作ったの?」


「ああ」


葵はアップリケをじっと見た。歪んだピカチュウ。不格好な耳。バラバラの縫い目。


「かわいい」


そう言った。


「本当に?」


「うん。世界で一個しかないピカチュウだもん」


葵は体操着袋を抱えて、学校に行った。


その背中を見送りながら、拓人は思った。


この子を、守らないといけない。


でも数日後、その体操着袋が、思わぬ事件を引き起こすことになる。



◆次話予告◆


「パパの作ったやつ、へんなの」


学校でそう言われた葵は、相手の顔を殴った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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