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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第17話 アップリケ事件

学校から電話が来たのは、午後二時を少し回った頃だった。


「糸井さんのお嬢さんが、お友達に手を出してしまいまして」


最初は意味がわからなかった。


葵が、誰かを殴った。


「今すぐ来ていただけますか」


担任の声は落ち着いていた。


けれど、その内容は穏やかではなかった。


練習を切り上げ、急いでロッカールームを出る。


チームメイトが何か声をかけてきた気がしたが、耳には入らない。


駐車場まで走り、車に飛び乗った。


信号がやけに長い。


道も、いつもより混んでいる気がした。


それでも時計を見ると、電話からまだ二十分しか経っていなかった。


葵が誰かを殴った。


その言葉だけが、頭の中を何度も巡っていた。


葵は感受性が強い。


泣き虫で、人の痛みにすぐ気づく子だ。


誰かを殴るような子ではない。


何を言われた。


何があった。


アクセルを踏む足に、自然と力が入った。


学校へ着くと、そのまま校長室へ案内された。


葵が椅子に座っていた。


うつむいたまま、膝の上で両手を強く握っている。


体操着袋を抱えたまま。


その袋には、歪んだピカチュウ。


昨夜、指から血をにじませながら縫ったアップリケだった。


隣には見知らぬ男。


大柄だった。


百八十センチはありそうな体格。


太い首。


作業着の袖には油染み。


四十代後半くらいだろうか。


その横に、小柄な男の子が座っている。


右頬が少し赤い。


男は拓人を見るなり立ち上がった。


「あんたが親か」


低く響く声だった。


「はい。糸井と申します。この度は娘が……」


「うちの息子の顔を殴っておいて、この度はじゃないだろ」


担任が慌てて口を挟む。


「佐藤さん、まずお話を」


しかし佐藤は止まらなかった。


「娘さんが手を出したのは事実なんでしょう。それについてどう説明してくれるんですか」


その言葉は正しかった。


拓人は静かに頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


「謝れば済む話じゃ――」


「本当に、申し訳ありませんでした」


もう一度、深く頭を下げる。


佐藤は口を閉じた。


そこまで頭を下げられると、怒りのぶつけどころを失ったようだった。


担任はその隙を逃さない。


「まず状況を整理しましょう」


休み時間。


葵が佐藤蓮くんの顔を殴った。


理由はまだ調査中。


ただ、蓮くんが何か言ったことがきっかけらしい。


説明を聞き終えると、拓人は葵の前へしゃがみ込んだ。


葵は動かない。


体操着袋を抱えた腕だけが、小さく震えていた。


「葵」


返事はない。


「何があったか、話してくれるか」


沈黙。


拓人は待った。


航太の反抗期で学んだ。


黙って待つこと。


急かせば、きっと口を閉ざしてしまう。


「葵」


三度目。


葵の肩が小さく震えた。


「……っ」


何かを押し殺すような音。


「バカにされた」


かすれる声だった。


「何を?」


葵は体操着袋を抱き締めた。


「パパの」


その二文字だけで十分だった。


胸の奥が痛んだ。


俺が昨夜、血をにじませながら縫ったピカチュウ。


それを笑われた。


だから葵は殴った。


泣きはらした目で下を向いたまま。


それでも体操着袋だけは離さなかった。


拓人は立ち上がる。


そっと袋を受け取り、佐藤へ差し出した。


「見ていただけますか」


佐藤は怪訝そうな顔をした。


それでも受け取る。


水色の袋。


歪んだピカチュウ。


左右で形が違う耳。


曲がった縫い目。


不揃いな大きさ。


「娘が欲しいと言ったので、俺が縫いました」


佐藤は黙っていた。


「妻が先月亡くなりまして。縫い方なんてわからないから、動画を見ながら夜中に作りました。何度も指を刺しながら」


左の人差し指に貼った絆創膏を見せる。


「不格好です。でも娘は、これを誰より大事にしてくれていました」


佐藤は何も言わない。


ただ、アップリケだけを見続けていた。


校長が小さく咳払いをする。


担任も何か言おうとした。


それでも佐藤は動かない。


時間の感覚が消えた。


十秒だったのか、それとももっと長かったのか。


やがて佐藤は顔を上げた。


「蓮」


息子を見る。


「立て」


蓮が立ち上がる。


佐藤は胸ぐらを掴んだ。


「佐藤さん!」


担任が叫ぶ。


拓人も一歩踏み出した。


だが佐藤は、蓮を引き寄せて低く言った。


「お前は何を笑った」


「……」


「答えろ」


「へん、だと思って」


「へんなら笑っていいのか」


蓮は黙った。


「このアップリケがへんに見えるなら、お前の目がへんだ」


胸ぐらから手を離す。


肩を掴み、葵の前へ向けた。


「謝れ」


蓮は深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


葵はしばらく黙っていた。


やがて、小さく頷いた。


佐藤は拓人へ向き直る。


そして頭を下げた。


「息子が失礼なことをした。申し訳なかった」


「いえ。葵が手を出したのは事実です」


「手を出させたのは、うちの息子だ」


怒りはもう消えていた。


別の強さを宿した目だった。


「うちの息子の非礼を、あんたの娘さんが体を張って叱ってくれた。それだけの話だ」


拓人は何も返せなかった。


「私からもお詫びします」


佐藤は担任へ頭を下げる。


「蓮には家でも、きちんと言い聞かせます」


学校を出た頃には、夕方になっていた。


葵は節子が迎えに来て帰っていく。


校門前には拓人と佐藤だけが残った。


どちらも口を開かない。


川口の空は夕焼け色だった。


ランドセルを背負った小学生が、自転車で笑いながら通り過ぎていく。


拓人は校長室を思い返した。


泣きはらした葵。


体操着袋。


そして、怒鳴り込んできた男が、自分の息子を叱り、一緒に頭を下げた姿。


どんな人なのか。


まだ何も知らない。


それでも、妙に気になった。


「缶コーヒー、飲むか」


佐藤が言った。


すぐ近くに自販機がある。


「いただきます」


二本買い、その一本を渡してくる。


缶はまだ温かかった。


「近くに公園ある」


それだけ言って歩き始める。


拓人は黙って後を追った。


家へ帰ると、葵がリビングで待っていた。


体操着袋を抱えたまま。


「パパ」


「なんだ」


「ごめんね。殴って」


「謝る相手は蓮くんだ。俺じゃない」


「もうした」


「なら、それでいい」


少し考えたあと、葵は静かに言った。


「でも後悔してない」


拓人は娘を見つめた。


泣きはらした目。


それでも、まっすぐ前を向いている。


「パパのピカチュウ、バカにされたくなかった」


何も言えなかった。


言葉はいらなかった。


拓人はそっと頭に手を置く。


それだけで十分だった。


少しして航太が部屋から出てきた。


葵の隣へ座る。


何も言わない。


ただ隣にいる。


それだけで、十分だった。


その夜。


結衣を寝かせたあと、拓人はリビングの明かりを消した。


窓の外には川口の夜景。


荒川の向こうには東京の灯。


エルザタワー最上階から見るこの景色にも、少しずつ慣れてきた。


佐藤の背中を思い出す。


「また」


そう言って歩き出した背中。


川口へ来て初めて思った。


また会いたい。


あの男は、一体何者なんだ。


◆次話予告◆


公園のベンチで、佐藤は缶コーヒーを一口飲んで言った。


「お前、離乳食の裏ごし、うまくいってないだろ」


何も話していない。


それなのに、見抜かれていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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