第18話 公園のベンチ
荒川に近い児童公園だった。
滑り台とブランコと、砂場が一つ。ベンチが二つ、向かい合って置いてある。
佐藤はその一つに腰を下ろした。缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。
拓人も隣のベンチに座った。缶を両手で包んだ。まだ温かい。
しばらく、どちらも喋らなかった。
夕方の公園には誰もいない。ブランコが風で少し揺れていた。
「なあ」
佐藤が口を開いた。
「お前、離乳食の裏ごし、上手くいってないだろ」
拓人は缶を持つ手を止めた。
言われて、動けなかった。
なぜわかったんだ。
「……なぜ」
「顔でわかる」
佐藤が笑った。低い声で、少しだけ笑った。
「昨日の夜、下の子が寝る前にえずいてただろ。裏ごしが粗いと、あれになる」
拓人は何も言えなかった。図星だった。結衣は昨夜、離乳食を半分吐いた。何が悪いのか、わからないままだった。
「うちも三人育てた。上二人はもう成人してるけどな。あの頃は毎日戦争だったよ」
佐藤は缶を口に運んだ。
「裏ごしはな、二度やれ。一度目は粗い。二度目で滑らかになる。面倒でもそこ、はしょるな」
拓人はその言葉を、頭の中で繰り返した。
二度、裏ごし。
誰にも教わったことがなかった。ネットの記事にも、そこまで具体的には書いていない。
「特売日は火曜と金曜だ」
佐藤が続けた。
「駅前のスーパー。火曜は肉、金曜は野菜。覚えとけ」
「なぜそんなことまで」
「うちの嫁が言ってた。俺は買い物なんかしたことなかったけどな、蓮が生まれてから、嫁に叩き込まれた」
拓人は缶コーヒーを一口飲んだ。甘い。ずっと苦いものだと思っていたが、意外と甘かった。
「夜泣きは」
佐藤が聞いてきた。
「あるか」
「あります。毎晩ではないですが」
「抱っこして揺らすだけじゃダメだ。歩け。抱いたまま、部屋の中をぐるぐる歩け。振動が違う」
拓人はまた、頭の中で繰り返した。
歩く。揺らすだけじゃない。
こんなことを、誰かに教わったのは初めてだった。
サッカーのことなら、誰よりも知っている。フォーメーション、フィジカル、対戦相手の分析。世界中のどんな指導者とも、対等に話せる自信がある。
でも離乳食の裏ごしのやり方は、知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
施設にいた頃、そんなことを教えてくれる大人はいなかった。結婚してからは、遥がすべてやってくれていた。拓人は知らないままだった。
「なんでそんなに、詳しいんですか」
聞くと、佐藤はちょっと黙った。
それから、缶コーヒーを見つめながら言った。
「俺も、親父がいなかったからな」
拓人は佐藤を見た。
「早くに死んだ。母ひとりで育てられた。だから自分の子供のことは、誰よりも知っておきたかった。誰にも頼れなかった分、自分で覚えた」
風が吹いた。ブランコがまた、少し揺れた。
「あんたも、似たようなもんだろ」
拓人は答えなかった。答える必要もなかった。
「施設育ちだって聞いた。学校の先生に」
「……はい」
「なら、なおさら誰も教えてくれなかっただろうな。裏ごしのやり方も、夜泣きの歩き方も」
拓人は缶を強く握った。
図星だった。何もかも、図星だった。
「あんた、サッカーじゃ世界一だったんだろ。バロンドールだっけ。テレビで見たことある」
「はい」
「でも育児は、素人だ」
「はい」
佐藤はうなずいた。
「なら、俺が教える」
拓人は顔を上げた。
「え」
「工務店やってる。時間の融通は利く。困ったら電話しろ。裏ごしでも、特売日でも、夜泣きでも、なんでも聞け」
拓人は言葉が出なかった。
こんなふうに、誰かに言われたのは初めてだった。
困ったら聞け。頼れ。
そんなことを言ってくれる人間が、これまでの人生にいただろうか。
遥はいつも支えてくれた。でもそれは夫婦としてだった。誰かが、対等な立場で、ただ「困ったら聞け」と言ってくれることは、なかった気がする。
「なぜ、そこまで」
聞くと、佐藤はまた笑った。
「アップリケ見たからだよ」
拓人は黙った。
「あれ見て、わかった。あんた、必死なんだなって。世界一の選手が、深夜に指刺しながら、不格好なピカチュウ縫ってる。そんな親、そうそういない」
佐藤は缶を飲み干した。
「うちの息子が、悪かった」
「もう終わった話です」
「終わってない。俺が勝手に、終わらせたくないだけだ」
拓人は佐藤の横顔を見た。
作業着の袖の油染み。太い首。四十代後半の、どこにでもいそうな工務店の社長。
でもこの男は、初めて会った日に、拓人の何かを見抜いた。
「兄貴、って呼んでいいですか」
言葉が、勝手に出た。
自分でも驚いた。こんな言葉を、誰かに向けて口にしたことは、一度もなかった。
佐藤は一瞬、目を丸くした。
それから、大きな声で笑った。
「いいぞ。呼べ」
笑い声が、静かな公園に響いた。
拓人は缶コーヒーを飲み干した。甘かった。
その時、佐藤のスマホが鳴った。
画面を見た瞬間、佐藤の顔から笑みが消えた。
「悪い、ちょっと出る」
立ち上がって、少し離れた場所で電話に出た。
背中しか見えない。声も聞こえない。
でも、その背中の空気が、さっきまでとは違っていた。
拓人はベンチに座ったまま、その背中を見つめた。
何かが、あった。
◆次話予告◆
佐藤が電話を切って、戻ってきた。
その顔は、さっきまでの笑顔とはまるで違っていた。
「なあ、拓人」
初めて、呼び捨てで呼ばれた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




