第19話 兄貴
佐藤が戻ってきた。
顔つきが変わっていた。さっきまでの、ガハガハとよく笑う男の顔ではない。
「なあ、拓人」
初めて呼び捨てで呼ばれた。
「はい」
「今の電話、フェニックスの件だ」
「フェニックス」
「川口フェニックス。少年サッカーチーム。俺が運営代表やってる」
拓人は空き缶を握ったまま、佐藤を見た。
意外だった。工務店の社長だと聞いていた。それだけの男ではなかったらしい。
「グラウンドが使えなくなった」
佐藤が言った。
「市の施設が改修工事に入る。来月から半年、使用不可。他のグラウンドも予約でいっぱいだ」
「それは」
「大会も控えてる。子供たちに練習場所がない」
佐藤はベンチに座り直し、空き缶を両手で潰した。
「今まで何とかしてきた。でも今回は、正直厳しい」
拓人は黙って聞いていた。
サッカーの世界は、いつも大きな金と組織で動いていた。スタジアム、クラブハウス、専属のグラウンドキーパー。足りないものがあれば、フロントが用意した。
大人が頭を抱えて子供の練習場所を探す苦労を、拓人は知らなかった。
「蓮も、他の子たちも、練習が生きがいだ」
佐藤が続けた。
「学校でうまくいかないことがあっても、グラウンドに来れば忘れられる。そういう場所なんだ」
拓人は葵の顔を思い出した。
体操着袋を抱えて、下を向いていたあの日の葵。
「殴られてくればいい」なんて誰も思っていない。それでも子供には、逃げ場がいる。
「手伝えることがあれば」
言いかけて、拓人は止まった。
自分に何ができるのか、わからなかった。プロの世界のことなら何でも知っている。グラウンド探しなんて、やったことがない。
佐藤が少し笑った。
「気持ちだけで十分だ。あんたに頼るつもりはない」
「でも」
「あんたには子供が三人いる。それだけで手一杯だろ」
その通りだった。
それでも、頭の隅に一つの光景が残った。
葵の道具袋に、蓮がいた。蓮の父親に、フェニックスがあった。フェニックスに、居場所を失いかけている子供たちがいた。
体操着袋一つが、こんなところまで繋がっていた。
これまで拓人は、自分の世界とこの街を別のものだと思っていた。ウェンブリー、サンティアゴ・ベルナベウ、バロンドールの舞台。そういう場所と、川口の小さな公園は交わらない線のはずだった。
でも、最初から交わっていた。気づいていなかっただけだ。
「兄貴」
拓人は言った。
佐藤が顔を上げた。
「何か力になれることがあったら、本当に言ってください」
「さっきも言ったろ。あんたには余裕が」
「ありません。でも」
拓人は空を見た。オレンジが、もう紫に変わりかけている。
「俺は、誰かに助けてもらってばかりです。あなたに、節子さんに、義父さんに。何も返せていない」
佐藤は少し黙った。それから、また大きく笑った。
「律儀な男だな」
「兄貴に、教わったので」
「まだ何も教えてねえよ」
「裏ごしのやり方、教わりました」
佐藤は声を上げて笑った。夕方の公園に、その声が響いた。
「またな。今度は俺から連絡する」
立ち上がって、佐藤は歩き出した。大きな背中が、出口へ遠ざかっていく。
拓人はベンチに座ったまま、その背中を見送った。
グラウンドが使えなくなる。半年間。蓮や、他の子供たちの居場所が消える。
拓人には関係のない話のはずだった。フェニックスの一員でもない。契約書もない。ただ、娘の友達の父親が困っている。それだけだ。
なのに、家に帰る車の中でも、言葉が頭から離れなかった。
グラウンドが、ない。
信号待ちで、ふと思い出した。
移籍の噂だ。
先週、代理人から連絡があった。浦和レッズが興味を示している。まだ正式な話ではない。でも、もし川口に近いクラブに移籍するなら――
信号が青に変わった。
アクセルを踏んだ。
家に着くと、玄関で航太が待っていた。
「パパ、遅かったね」
「悪い。ちょっと、話し込んでた」
「佐藤さんと?」
「ああ」
航太は少し考える顔をした。
「あの人、いい人だよね」
「そうだな」
拓人は靴を脱ぎながら思った。
いい人、なんて言葉じゃ足りない。
あの男は、初めて拓人に「困ったら頼れ」と言ってくれた。血の繋がりも、契約も、何もないのに。
その男が今、困っている。
寝室で、拓人は代理人から届いていたメールを開いた。
浦和レッズ、獲得検討。
正式なオファーは、まだ先らしい。
もしこの話が動いたら、川口に帰ってこられる。
拓人はスマホの画面を見つめた。
窓の外を見た。荒川の向こうに、東京の明かりが点々と見える。
その光のどこかに、埼玉スタジアムがある。
そして、梅雨が明けようとしていた・・・。
◆次回予告◆
数日後、代理人から一本の電話がかかってくる。
「糸井さん、正式にオファーが来ました」
移籍先の名前を聞いた瞬間、拓人は言葉を失う。
古巣でも、ライバルクラブでもない。
川口から、電車で二十分の場所だった。
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