第20話 レッズの男
正式発表は、朝のうちにあった。
移籍金、契約年数、背番号。ニュースサイトに、淡々とした文字が並んだ。
コメント欄は荒れていた。
「終わった選手」
「レアルからJリーグって、落ちぶれたな」
「話題作りだろ」
拓人はスマホを見ながら、コーヒーを飲んだ。苦かった。
慣れているはずだった。批判は、現役生活のどこかで必ずついて回る。ドルトムント時代も、レアル移籍直後も、同じような言葉を浴びた。
でも今回は、少し違う感触があった。
終わった選手。
自分でも、否定できなかった。三十四歳。世界一のキャリアを積んだ後、あえて選んだ国内復帰。誰がどう見ても、キャリアの下り坂だ。
でも、拓人には理由があった。
川口。子供たち。義父母。佐藤。
言葉にできない理由が、批判のコメントよりも重かった。
練習初日、浦和レッズの練習場に着いた。
車を降りた瞬間、視線を感じた。
選手たちがこちらを見ていた。ロッカールームに入ると、会話が一瞬止まった。
「お疲れ様です」
若い選手が、緊張した声で挨拶してきた。拓人は「よろしく」と返した。
視線の種類が、レアルの頃と違った。
あの頃は、憧れと敬意が混ざった目だった。ここにあるのは、値踏みの目だ。
本当にやれるのか。
世界最高峰から国内リーグに来た男を、どう扱えばいいのか。
コーチが練習メニューを説明する間、拓人は黙って聞いていた。フォーメーション、走行距離、ポジショニング。内容自体は、レアルよりも単純だった。
単純だから簡単、というわけではない。
体が、思うように動かなかった。
パスのスピード、球際の強さ、選手同士の距離感。国内リーグ特有のリズムに、体がまだ馴染んでいなかった。
紅白戦で、拓人は何度かパスをミスした。
若い選手が舌打ちするのが聞こえた。
「終わった選手」
コメント欄の言葉が、頭の中で響いた。
練習が終わった後、更衣室で一人になった。
シャワーを浴びながら、拓人は自分に問いかけた。
来て良かったのか。
答えは、すぐに出た。
良かった。
理由は、ピッチの上にはなかった。
練習を終えて、車に乗った。時計を見た。
保育園のお迎え、17時。
間に合うか。
道は混んでいた。信号待ちのたびに、時計を見た。
心臓が、少し速くなっていた。
紅白戦でパスをミスした時より、今の方が緊張している。
世界中の舞台で、8万人の観客の前でプレーしてきた男が、保育園の送り迎えの時間に、こんなに焦っている。
自分でも、可笑しかった。
保育園に着いたのは、17時3分だった。
「糸井さん、大丈夫ですよ。少し過ぎても」
先生は笑って言った。でも拓人は、汗をかいていた。
結衣を抱き上げると、小さな手が拓人の頬を触った。
「ぱ、ぱ」
まだ上手く言えない言葉。でも、確かに拓人を呼んでいた。
練習場での視線も、コメント欄の言葉も、その一言で遠くに消えた。
家に帰ると、航太と葵が出迎えた。
「パパ、初日どうだった?」
航太が聞いてきた。
「ミスした」
正直に答えた。
「え、パパでも?」
「ああ。全然、体が慣れてない」
航太は少し驚いた顔をした。それから、小さく笑った。
「そういうの、初めて聞いた」
「何が」
「パパが、うまくいかなかったって言うの」
拓人は返す言葉を探した。見つからなかった。
これまで航太に見せてきたのは、勝ち続ける姿だけだった。バロンドール、UCL優勝、常に頂点にいる父親。
今日、初めて弱さを見せた。
航太は何も言わず、リビングに戻っていった。ただ、その足取りは、いつもより軽かった。
夜、子供たちが寝た後、拓人はリビングでスマホを開いた。
ニュースサイトの続報が出ていた。
「糸井拓人、Jリーグ初練習でミス連発」
見出しを見て、拓人は少し笑った。
事実だ。否定のしようがない。
それでも構わなかった。
ピッチの上で「終わった選手」と呼ばれても構わない。
一番大事な戦場は、もう別の場所にあった。
翌朝、練習に向かう前、拓人は台所で航太たちの弁当を作った。
卵焼きを焼きながら、今日の練習メニューを頭の中で反芻した。
パスのタイミング、走るコース。昨日のミスを、一つずつ潰していく。
弁当箱に卵焼きを詰めながら、拓人は思った。
ピッチと、この台所。
両方に、立ち続けなければいけない。
車に乗り込む直前、スマホが震えた。
コーチからのメッセージだった。
「明日から、スタメンで使う」
拓人は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
指が、少し冷たくなった。
スタメン。
つまり、練習の時間が今より長くなる。
保育園の送り迎えの時間と、確実にぶつかる。
◆次回予告◆
スタメン発表の翌日、拓人はカレンダーを開く。
練習時間、試合日程、保育園の行事。
書き込んでいくうちに、あるページで手が止まる。
同じ日に、二つの予定が重なっていた。
一つは、公式戦。
もう一つは、結衣の一歳の誕生日だった。
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