第21話 二つの戦場
練習が終わると、拓人は誰よりも早くグラウンドを出た。
「お疲れ様でした」
若い選手たちが声をかけてくる。以前より、その声に棘がなくなっていた。紅白戦のミスは減っていた。体は少しずつ、国内リーグのリズムに馴染み始めていた。
でも、拓人にとって本当の勝負は、車に乗り込んでからだった。
保育園、17時。小学校の学童、17時半。
信号待ちのたびに、時計を確認する。
保育園に着くと、結衣が真っ先に駆け寄ってきた。抱き上げて、車に乗せる。次は学童だ。航太は自分で帰る年齢になっていたが、葵はまだ迎えが必要だった。
家に着くと、すぐに台所に立つ。
冷蔵庫を開けて、献立を考える。今日は鶏肉があった。唐揚げにするか、煮物にするか。結衣はまだ大人と同じものは食べられない。取り分けられるメニューを選ぶ。
包丁を握りながら、拓人はふと思った。
コンマ一秒でパスの判断を下すあの感覚と、味付けの塩加減を見極める感覚は、案外近いところにある。
誰にも褒められない。拍手もされない。それでも、間違えれば誰かが困る。
唐揚げを揚げている間に、航太が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。宿題は」
「あとでやる」
「先にやれ。夕飯の後は結衣の風呂だ」
航太は少し不満そうな顔をしたが、リビングでランドセルを開いた。
葵は結衣の隣に座って、絵を描いていた。時々、結衣の手を取って一緒にクレヨンを持たせている。結衣は何を描いているのかわからない線を、楽しそうに紙に走らせていた。
夕食の後、航太の宿題を見た。
算数のプリントだった。分数の計算。拓人にとっては簡単な問題だ。でも航太は、鉛筆を止めて考え込んでいる。
「わからないところは」
「別に」
素っ気ない返事だった。
拓人はそれ以上聞かなかった。佐藤に言われたことを思い出す。
反抗期の息子に、正論をぶつけるな。待て。
黙って隣に座った。航太が鉛筆を動かす音だけが、リビングに響いた。
しばらくして、航太がぼそりと言った。
「この分数、通分ってどうやるんだっけ」
拓人は静かに、ノートに書き込んだ。
結衣の風呂は、毎晩の戦いだった。
暴れる結衣を片手で支えながら、もう片方の手でシャンプーをする。何度も水が目に入って泣かれた。最初の頃は、拓人も一緒になって泣きそうだった。
今は、少しコツを掴んでいる。
タオルを目の上に軽く乗せる。それだけで、結衣は泣かなくなる。
誰も教えてくれなかった小さな発見が、毎晩一つずつ増えていく。
風呂上がり、結衣を寝かしつける。
絵本を読む。同じ本を、もう何十回も読んでいる。結衣は毎回、同じページで笑う。ページをめくる指の動きも、覚えられている気がした。
結衣が眠りに落ちると、リビングに戻った。
葵はもう自分の部屋に行っていた。航太も、宿題を終えて部屋にこもっていた。
拓人は一人、リビングのソファに座った。
時計を見ると、22時を過ぎていた。
明日は6時起きだ。子供たちの弁当を作って、練習に向かう。
体は疲れていた。プロの練習より、育児の方が疲れる日もある。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
ソファに座ったまま、拓人はカレンダーアプリを開いた。
来週の予定を確認する。
火曜、練習。水曜、練習。木曜、公式戦。金曜、練習。
木曜の欄に、もう一つの予定が入っていた。
結衣、一歳誕生日。
同じ日だった。
拓人はしばらく、画面を見つめた。
公式戦は、スタメン発表からの初戦だった。チームにとっても、拓人にとっても、大事な一戦になる。
結衣の誕生日は、一度きりしかない。
どちらも、外せない。
スマホを閉じて、拓人は目を閉じた。
翌朝、卵焼きを焼きながら、拓人はもう一度カレンダーを確認した。
木曜。変わらず、二つの予定が並んでいる。
弁当箱に卵焼きを詰めていると、航太が起きてきた。
「パパ、木曜の試合、テレビでやるの」
「ああ」
「見るよ、みんなで」
拓人は手を止めた。
「みんなで」
「うん。結衣の誕生日ケーキ食べながら」
拓人は航太を見た。
航太は特に何気ない顔で、牛乳を注いでいる。
「その日、パパは試合だから、帰りが遅くなる」
「知ってる。だから先にケーキ食べて、パパが帰ってきたらもう一回お祝いする」
拓人は、その言葉をしばらく飲み込めなかった。
木曜の朝が来た。
拓人はキッチンで、いつもより丁寧に卵焼きを焼いていた。
結衣の誕生日。そして、公式戦の日。
車に乗り込む前、拓人はもう一度リビングを振り返った。
飾り付けられた小さなケーキが、テーブルの上に置いてある。葵が朝から手作りした紙の輪飾りが、天井から下がっていた。
拓人はその光景を、しばらく目に焼き付けた。
エンジンをかけながら、思った。
今日、自分は何点取れるだろうか。
そして、何時に家に帰れるだろうか。
◆次回予告◆
公式戦当日。
拓人はスタメンとしてピッチに立つ。
前半、相手DFの重心の揺れに、拓人は違和感を覚える。
その動きに、既視感があった。
昨夜、結衣が眠る前に見せた、あの表情と同じだった。
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