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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第21話 二つの戦場

練習が終わると、拓人は誰よりも早くグラウンドを出た。


「お疲れ様でした」


若い選手たちが声をかけてくる。以前より、その声に棘がなくなっていた。紅白戦のミスは減っていた。体は少しずつ、国内リーグのリズムに馴染み始めていた。


でも、拓人にとって本当の勝負は、車に乗り込んでからだった。


保育園、17時。小学校の学童、17時半。


信号待ちのたびに、時計を確認する。


保育園に着くと、結衣が真っ先に駆け寄ってきた。抱き上げて、車に乗せる。次は学童だ。航太は自分で帰る年齢になっていたが、葵はまだ迎えが必要だった。


家に着くと、すぐに台所に立つ。


冷蔵庫を開けて、献立を考える。今日は鶏肉があった。唐揚げにするか、煮物にするか。結衣はまだ大人と同じものは食べられない。取り分けられるメニューを選ぶ。


包丁を握りながら、拓人はふと思った。


コンマ一秒でパスの判断を下すあの感覚と、味付けの塩加減を見極める感覚は、案外近いところにある。


誰にも褒められない。拍手もされない。それでも、間違えれば誰かが困る。


唐揚げを揚げている間に、航太が帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり。宿題は」


「あとでやる」


「先にやれ。夕飯の後は結衣の風呂だ」


航太は少し不満そうな顔をしたが、リビングでランドセルを開いた。


葵は結衣の隣に座って、絵を描いていた。時々、結衣の手を取って一緒にクレヨンを持たせている。結衣は何を描いているのかわからない線を、楽しそうに紙に走らせていた。


夕食の後、航太の宿題を見た。


算数のプリントだった。分数の計算。拓人にとっては簡単な問題だ。でも航太は、鉛筆を止めて考え込んでいる。


「わからないところは」


「別に」


素っ気ない返事だった。


拓人はそれ以上聞かなかった。佐藤に言われたことを思い出す。


反抗期の息子に、正論をぶつけるな。待て。


黙って隣に座った。航太が鉛筆を動かす音だけが、リビングに響いた。


しばらくして、航太がぼそりと言った。


「この分数、通分ってどうやるんだっけ」


拓人は静かに、ノートに書き込んだ。


結衣の風呂は、毎晩の戦いだった。


暴れる結衣を片手で支えながら、もう片方の手でシャンプーをする。何度も水が目に入って泣かれた。最初の頃は、拓人も一緒になって泣きそうだった。


今は、少しコツを掴んでいる。


タオルを目の上に軽く乗せる。それだけで、結衣は泣かなくなる。


誰も教えてくれなかった小さな発見が、毎晩一つずつ増えていく。


風呂上がり、結衣を寝かしつける。


絵本を読む。同じ本を、もう何十回も読んでいる。結衣は毎回、同じページで笑う。ページをめくる指の動きも、覚えられている気がした。


結衣が眠りに落ちると、リビングに戻った。


葵はもう自分の部屋に行っていた。航太も、宿題を終えて部屋にこもっていた。


拓人は一人、リビングのソファに座った。


時計を見ると、22時を過ぎていた。


明日は6時起きだ。子供たちの弁当を作って、練習に向かう。


体は疲れていた。プロの練習より、育児の方が疲れる日もある。


それでも、不思議と嫌ではなかった。


ソファに座ったまま、拓人はカレンダーアプリを開いた。


来週の予定を確認する。


火曜、練習。水曜、練習。木曜、公式戦。金曜、練習。


木曜の欄に、もう一つの予定が入っていた。


結衣、一歳誕生日。


同じ日だった。


拓人はしばらく、画面を見つめた。


公式戦は、スタメン発表からの初戦だった。チームにとっても、拓人にとっても、大事な一戦になる。


結衣の誕生日は、一度きりしかない。


どちらも、外せない。


スマホを閉じて、拓人は目を閉じた。


翌朝、卵焼きを焼きながら、拓人はもう一度カレンダーを確認した。


木曜。変わらず、二つの予定が並んでいる。


弁当箱に卵焼きを詰めていると、航太が起きてきた。


「パパ、木曜の試合、テレビでやるの」


「ああ」


「見るよ、みんなで」


拓人は手を止めた。


「みんなで」


「うん。結衣の誕生日ケーキ食べながら」


拓人は航太を見た。


航太は特に何気ない顔で、牛乳を注いでいる。


「その日、パパは試合だから、帰りが遅くなる」


「知ってる。だから先にケーキ食べて、パパが帰ってきたらもう一回お祝いする」


拓人は、その言葉をしばらく飲み込めなかった。


木曜の朝が来た。


拓人はキッチンで、いつもより丁寧に卵焼きを焼いていた。


結衣の誕生日。そして、公式戦の日。


車に乗り込む前、拓人はもう一度リビングを振り返った。


飾り付けられた小さなケーキが、テーブルの上に置いてある。葵が朝から手作りした紙の輪飾りが、天井から下がっていた。


拓人はその光景を、しばらく目に焼き付けた。


エンジンをかけながら、思った。


今日、自分は何点取れるだろうか。


そして、何時に家に帰れるだろうか。


◆次回予告◆


公式戦当日。


拓人はスタメンとしてピッチに立つ。


前半、相手DFの重心の揺れに、拓人は違和感を覚える。


その動きに、既視感があった。


昨夜、結衣が眠る前に見せた、あの表情と同じだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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