第22話 観察眼
前半12分、拓人は相手DFの動きに違和感を覚えていた。
右サイドバック、背番号2番。ボールを持つたびに、一瞬だけ重心が右に傾く。
小さな癖だった。誰も気づかないほど、小さい。
でも拓人には、はっきりと見えた。
既視感があった。
昨夜、結衣が眠りにつく直前に見せた顔と、同じ揺れ方をしていた。
結衣は泣く前、必ず一瞬だけ、上唇が右にわずかに歪む。それに気づいてから、拓人は泣かれる前に対応できるようになった。抱き方を変える。声のトーンを変える。結衣が泣く「予兆」を、体が覚えていた。
同じことが、今、ピッチの上で起きている。
ボールを持った2番の重心が、右に傾いた瞬間。
拓人は動いた。
パスコースを読んでいた。相手のクロスが上がる前に、体を寄せた。
インターセプト。
そのままショートカウンター。味方にボールを繋ぎ、決定的なチャンスを作った。
シュートは枠を外れたが、スタンドから歓声が上がった。
ベンチのコーチが、驚いた顔で拓人を見ていた。
「今の、完全に読んでたな」
ハーフタイム、コーチが声をかけてきた。
「はい」
「どこで気づいた」
拓人は少し考えた。
うまく説明できる自信がなかった。相手の重心の変化を、結衣の表情と重ねて読んだ、なんて言ったら、頭がおかしいと思われるかもしれない。
「なんとなく、です」
コーチは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
後半、拓人はさらに集中して相手の動きを観察した。
2番だけではない。他の選手にも、それぞれ癖があった。
ボールを蹴る直前に肩が下がる選手。パスを出す前に視線が泳ぐ選手。
以前の拓人なら、こういう情報は数値やデータで処理していた。走行距離、パス成功率、シュート精度。分析官が用意した資料を読み込んで、頭で理解する。
今日、拓人が使っているのは、そういう類の情報ではなかった。
もっと近い距離の観察だった。
葵が何かに傷ついているとき、口数が減る前に、瞬きの回数が増える。航太が何か言いたいことを我慢しているとき、いつもより早口になる。結衣が眠くなる前は、耳を触る癖がある。
毎日、家の中で無意識に読んできた小さな変化。
それが、ピッチの上でも同じように働いていた。
後半30分、拓人が読み切ったパスコースから、決勝点が生まれた。
拓人自身のアシストだった。
試合終了の笛が鳴った瞬間、チームメイトが駆け寄ってきた。
「さすが元レアルですね」
若い選手が興奮した声で言った。
拓人は曖昧に笑って、頷いた。
元レアルだからじゃない。喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
家に帰る車の中で、拓人は今日の試合を振り返った。
観察眼。
サッカーの世界にいた頃は、これを「才能」だと思っていた選手が多かった。天性のセンス。生まれ持った読みの鋭さ。
拓人にとって、その正体は少し違う。
夜泣きする結衣を、何十回もあやしてきた時間。
葵の機嫌が悪くなる前兆を、何度も見逃して、失敗を重ねてきた時間。
航太との会話が続かなくて、黙って隣に座り続けた時間。
そういう積み重ねが、今日のインターセプトに繋がっていた。
家に着くと、リビングで航太が起きていた。
「試合見てたよ。すごかった」
「そうか」
「あのパスカット、なんでわかったの」
拓人は少し迷ってから、答えた。
「お前らのおかげだ」
「え」
「毎日、お前らを見てるだろ。何か困ってないか、何か言いたいことがあるんじゃないか。それを見る癖が、今日、ピッチでも役に立った」
航太は不思議そうな顔をした。
「意味わかんない」
「俺も、うまく説明できない」
拓人は笑った。
航太も、つられたように少し笑った。
その夜、拓人はベッドに入ってからも、今日の試合を思い返していた。
結衣の表情。葵の瞬き。航太の早口。
そして、相手DFの重心。
翌日、練習に向かうと、いつもより早くグラウンドに来ている選手がいた。
さっきの若手だった。
「糸井さん」
声をかけられた。
「なんで昨日、あんなに動けたんですか。教えてほしいです」
拓人は、その選手の目を見た。
真剣な目だった。
でも、その奥に、何か迷いのようなものも見えた。
昨夜の航太と同じ、瞬きの回数だった。
◆次回予告◆
若手選手が、拓人に相談を持ちかける。
「実は、家のことで」
思いがけない言葉に、拓人は足を止める。
ピッチの外で見せた、あの迷いの理由が、明らかになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




