第23話 チームメイト
「実は、家のことで」
若手選手――名前は木村といった――は、そこで言葉を止めた。
グラウンドの隅、まだ他の選手が来ていない時間だった。朝の光が芝生を照らしている。
拓人は黙って続きを待った。
「子供が、生まれたばかりなんです。半年前に」
「そうか」
「嫁が、育児ノイローゼみたいになってて。俺、練習で家にいる時間が少なくて。どうしたらいいか、わからなくて」
木村の声は、少し震えていた。
拓人は木村の顔を見た。
疲れている。目の下に、うっすらとクマがある。練習中、どこか上の空だった理由が、これでわかった。
「毎日、何時に帰ってる」
「練習が終わってから、大体8時か9時です」
「早く帰れないのか」
「みんな、練習後も自主トレしてるんで。俺だけ帰るのは」
拓人は少し考えた。
これは、サッカーの技術指導とは違う話だった。でも、答えを持っている自信があった。
「自主トレは、家でもできる。ストレッチとイメージトレーニングだけでも、意味はある」
「でも」
「木村」
拓人は木村の目をまっすぐ見た。
「お前が今、一番大事にすべきものは、練習の量じゃない」
木村は黙った。
「奥さんが一人でいっぱいいっぱいになってる時、お前が家にいるだけで違う。何もできなくていい。ただ、いるだけでいい」
木村の目が、少し潤んだ。
「糸井さんも、そうだったんですか」
「俺は、もっと下手だった」
拓人は苦笑した。
「オムツも替えられなかった。何もできなかった。それでも、家に帰り続けた」
木村は頷いた。
その日の練習、木村の動きが少し違って見えた。
肩の力が抜けていた。パスの精度が、いつもより良かった。
練習後、木村が拓人のところに来た。
「今日、早く帰っていいですかね」
「行けよ」
木村は頭を下げて、ロッカールームへ走っていった。
その後ろ姿を見ながら、他の選手たちが拓人に近づいてきた。
「糸井さん、木村と何話してたんですか」
聞いてきたのは、キャプテンの中山だった。三十歳、チームの精神的支柱と言われている男だ。
「家のことだ」
「家?」
「言えない。木村の話だから」
中山は少し驚いた顔をした。それから、納得したように頷いた。
「らしいっすね、糸井さん」
「何が」
「レアルの元エースが、若手の家庭の悩み聞いてるって、普通、想像つかないでしょ」
拓人は肩をすくめた。
「悩みなんて、みんな持ってる」
中山はしばらく黙っていた。それから、思い切ったように聞いてきた。
「なんで、帰ってきたんですか」
その質問は、これまで何度も投げかけられてきた。マスコミからも、SNSのコメントからも。
でも今、目の前で聞かれた質問には、それらとは違う重みがあった。
拓人は少し考えてから、答えた。
「子供がいるから」
シンプルな答えだった。
中山は、それ以上を期待していたような顔をした。でも拓人は、それ以上言わなかった。
三人の子供。義父母。佐藤。川口という街。
言葉を重ねれば重ねるほど、本当のことから離れていく気がした。
「子供がいるから、か」
中山はその言葉を反芻するように呟いた。
「俺も、今度子供生まれるんですよ」
「そうか」
「不安なんですよね、正直。プロ続けながら、ちゃんと父親になれるのかって」
拓人は中山を見た。
自分も、同じ不安を抱えていた時期がある。いや、今も完全に消えたわけではない。
「なれる」
「なんでそう言えるんですか」
「なりたいと思ってるなら、もうなってる」
中山は目を丸くした。
拓人自身、その言葉がどこから出てきたのか、わからなかった。それでも、口にした瞬間、体の芯が少し軽くなった気がした。
その日の夜、家に帰ると、航太が珍しくリビングで待っていた。
「今日、練習どうだった」
「まあまあだ」
「木村さんって人、大丈夫?」
拓人は驚いた。
「なんで知ってる」
「さっきニュースで、木村選手のインタビュー見た。奥さんと子供のこと、大事にしたいって言ってた」
拓人はスマホでそのニュースを検索した。
木村が、練習後のインタビューで語っていた。
「チームの先輩に言われたんです。家にいるだけでいい、って」
拓人は画面を見つめた。
自分の言葉が、誰かの中で形を変えて、外に出ている。
指先が、少しだけ熱くなった。
翌朝、練習場に着くと、中山が待っていた。
「糸井さん」
「なんだ」
「今度、チームでバーベキューやるんです。家族も呼んで」
「へえ」
「来てくれませんか。子供たちも一緒に」
拓人は少し驚いた。
これまで、チームの誰かに家族ぐるみで誘われたことはなかった。
「考えとく」
「絶対来てくださいよ」
中山は笑って、グラウンドへ走っていった。
拓人はその背中を見送った。
グラウンドに来た初日に感じた、値踏みの視線を思い出した。
もう、どこにも見当たらなかった。
◆次回予告◆
チームが連勝を重ねる中、拓人はついに埼玉スタジアムのピッチに立つ。
レッズとして、初めてのホームゲーム。
スタンドを見上げた瞬間、拓人の視界に、見覚えのある顔が並んでいた。
川口の全員が、そこにいた。
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