第24話 埼玉スタジアムの夜
キックオフの笛が鳴る前、拓人はピッチに立って、スタンドを見上げた。
満員だった。
赤いユニフォームが、スタンド全体を埋め尽くしている。歓声が地鳴りのように響いていた。
これまで、世界中のスタジアムに立ってきた。ウェンブリー、サンティアゴ・ベルナベウ、シグナル・イドゥナ・パルク。どこも壮観だった。
でも今日は、少し違う感覚があった。
このスタンドのどこかに、川口の人間がいる。
拓人は視線を巡らせた。見つけられなかった。試合開始の緊張が、それを許さなかった。
前半、拓人はいつも通り相手の癖を読みながらプレーした。中盤でボールを受け、味方に散らす。無理な仕掛けはしない。木村へのパスも、丁寧に繋いだ。
木村は、以前より生き生きとプレーしていた。家庭の悩みを話してから、練習中の顔つきが変わっていた。
前半は0対0で終わった。
ハーフタイム、コーチが戦術の微調整を伝えた。
「後半、右サイドを厚くする。糸井、お前が起点になれ」
「わかりました」
後半15分、拓人は右サイドでボールを受けた。
相手のサイドバックに、見覚えのある重心の癖があった。
一瞬の間。拓人は内側に切れ込んだ。
視界が開けた。
ゴールまで、距離がある。でも、狙える角度だった。
打った。
ボールは弾丸のように飛んで、ゴール左隅に突き刺さった。
キーパーは反応すらできなかった。
スタジアムが、爆発した。
拓人はゴールに向かって走った。両手を広げた。
チームメイトが駆け寄ってきて、抱きついてくる。中山が拓人の背中を何度も叩いた。
拓人はスタンドを見上げた。
そこに、見覚えのある顔があった。
佐藤が、両手を突き上げて叫んでいた。節子が、ハンカチを目に当てている。航太と葵が、飛び跳ねながら手を振っていた。結衣は節子に抱かれて、何が起きたのかわからない顔できょとんとしていた。
そして、誠がいた。
いつも無口で、感情をほとんど表に出さない義父だ。
その誠が、両手を口の横に添えて、声を張り上げていた。
「タクトー!」
その声は、スタジアムの歓声にかき消されそうなほど小さかった。それでも拓人には、はっきりと聞こえた。
拓人は立ち止まって、その姿を見つめた。
葬儀の日も、エルザタワーに来た日も、誠はいつも静かだった。
その誠が、今、声を張り上げている。
拓人は片手を高く掲げた。誠に向けて。
試合はそのまま1対0で終わった。
拓人にとって、レッズでの初ゴールだった。
試合後、ミックスゾーンでインタビューを受けた。
「今日のゴール、率直な感想を」
記者に聞かれて、拓人は少し考えた。
「チームメイトが、繋いでくれたボールでした」
「移籍してから苦労された時期もあったと思いますが」
「はい。体が全然、リズムに慣れなくて」
「今日の一点で、その苦労が報われた形ですね」
拓人は首を振った。
「まだ、始まったばかりです」
記者は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
ロッカールームを出ると、家族が待っていた。
葵が真っ先に駆け寄ってきて、抱きついてきた。
「パパ、すごかった!」
「見てたか」
「見てた! ずっと見てた!」
航太も近づいてきて、少し照れくさそうに言った。
「かっこよかったよ」
拓人は航太の頭に手を置いた。節子は結衣を抱いたまま、微笑んでいる。
佐藤が、缶コーヒーを差し出してきた。
「兄貴」
「よくやったな」
拓人は缶コーヒーを受け取った。まだ温かかった。
最後に、誠が近づいてきた。
何も言わなかった。いつも通り、無言だった。
でも、拓人の肩に、そっと手を置いた。
「見ましたか」
拓人は聞いた。
誠は小さく頷いた。それだけだった。
その手のひらの重さだけが、しばらく肩に残った。
家族全員でスタジアムを出た。夜の埼玉スタジアムの周りには、まだサポーターの熱気が残っていた。
車に向かう途中、佐藤が拓人の隣に並んだ。
「なあ、拓人」
「なんですか」
「今度、フェニックスの練習、見に来てくれないか」
拓人は佐藤を見た。
「蓮のプレー、ちょっと見てほしいんだ」
「蓮くんの」
「あいつ、最近、急に上手くなってきてる気がしてな。親バカかもしれないけど」
拓人は少し笑った。
「時間、作ります」
「頼む」
佐藤はそう言って、缶コーヒーを飲み干した。
拓人は駐車場に向かって歩きながら、明日の予定を頭の中で組み立て始めていた。
◆次回予告◆
数日後、拓人は川口フェニックスの練習を訪れる。
グラウンドの隅で、一人の少年がボールを蹴っている。
その動きを見た瞬間、拓人は目を疑う。
親バカでは、なかった。
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