第86話 ACLE決勝
決勝当日。
キング・アブドゥッラー・スポーツシティ・スタジアム。
拓人はロッカールームで選手たちを、見渡した。
誰もがこれまでにない、表情をしていた。
緊張と確かな覚悟が、同居していた。
「ここまで、長かった」
拓人は静かに切り出した。
「川口の公園で、光と話した夜から」
「木村と個別に飯を食った日から」
「翔太が初めて公式戦に立った日から」
選手たちが、それぞれの記憶をたどるように、目を伏せた。
誰も多くを語らなかった。
それでも、その沈黙の中にこれまでの日々が確かに詰まっていた。
拓人は、その静けさをしばらく味わった。
「今日、すべてが繋がる」
光が、顔を上げた。
「監督、俺たち、負けません」
「わかってる」
拓人は、少し笑った。
木村が拓人に近づいた。
「監督、今日で、最後っすね」
「勝てば、な」
「勝ちます」
木村の目に迷いは、なかった。
翔太も静かに頷いていた。
「俺、公式戦、一度も出たことなかったのに」
「今、決勝のピッチに立ってます」
「不思議な気分です」
拓人はその言葉に頷いた。
「不思議なことを、お前らが、現実にしてきたんだ」
試合前、控室のモニターに日本からの映像が映し出された。
節子、誠、航太、葵、結衣。
家族全員が画面の向こうで手を振っていた。
「パパ、頑張って!」
葵の声が控室に響く。
誠は多くを語らず、ただ深く頷いた。
その一言もない頷きに、拓人は背中を押された。
節子が画面の向こうでそっと、涙を拭っていた。
「無理しないでね」
「無理します。今日だけは」
その返事に、節子は小さく笑った。
キックオフ。
相手は噂に違わぬ圧倒的な、個の力を見せてきた。
前半十分、あっという間に失点する。
0-1。
スタジアムの大半が、地鳴りのような歓声で揺れた。
拓人はベンチで拳を握りしめた。
「まだだ。焦るな」
その声は、選手たちに届いたのか、わからなかった。
前半二十分、再び失点。
0-2。
これまでにない、重い展開だった。
スタンドの一角、少ない日本人サポーターが、それでも声を張り上げる。
その声援は、確かにピッチまで届いていた。
光はその方角を、一瞬だけ見やった。
拳を握り、また前を向く。
木村がベンチに向かって叫んだ。
「監督、まだいけます!」
拓人は頷いた。
「後半、光を前線に上げる」
「翔太、中盤を締めろ」
前半は、そのまま0-2で終了した。
ロッカールームの空気は、重かった。
だが拓人は、選手たちの目を一人ずつ見た。
「まだ、負けてない」
「お前らの力を、まだ、半分も見せてない」
光が拳を握った。
「後半、決めます」
後半、開始早々。
浦和が息を吹き返す。
光が中盤でボールを持つ。
一人、かわす。
二人目もかわす。
シュート。
ゴールネットが揺れた。
1-2。
スタジアムの隅で、日本人サポーターの声が、爆発した。
拓人は思わずガッツポーズを作った。
流れが、変わり始めていた。
相手サポーターの声が、一瞬小さくなった。
その変化を拓人は、敏感に感じ取っていた。
流れというものは、目に見えなくても確かに存在する。
育児で培ったその感覚が、今ピッチの外で役立っていた。
後半二十分、翔太の読みが冴える。
相手のパスを、鋭くカット。
そのまま木村へ。
木村のシュートが、ゴールを射抜いた。
同点。
2-2。
スタジアムが、静まり返る。
信じられないという、空気が漂っていた。
相手ベンチが、慌ただしく動き出す。
相手監督が、選手交代のボードを掲げた。
新たに投入されたのは、大会得点王の背番号だった。
拓人はその選手の動きを、目で追った。
危険な、匂いがした。
拓人は、その様子を冷静に見つめる。
これまで積み上げてきたものが、確かに、この舞台で通用していた。
日本の自宅では、誠が、テレビの前に立ち上がっていた。
「同点だ、同点だぞ」
繰り返す誠の声に、葵と航太も、飛び跳ねて喜んだ。
結衣だけが、状況を理解できず、きょとんとしていた。
後半三十分、相手が再び、猛攻を仕掛けてきた。
木村が体を張って防ぐ。
翔太が際どいクリアでピンチを、凌ぐ。
浦和の守備陣が一丸となって耐え続けた。
九十分、終了。
2-2のまま、試合は延長戦に突入した。
拓人は選手たちをベンチ前に集めた。
「あと、三十分だ」
選手たちの顔には、疲労の色が濃かった。
それでも、目の輝きは消えていなかった。
坂上がベンチの後方で祈るように、手を組んでいた。
その姿を見て、拓人は小さく笑った。
数ヶ月前、フロントから厳しい言葉を浴びせられた日々が、遠い記憶のようだった。
今、同じ坂上が誰よりも強く勝利を、願っている。
光が、拓人を見た。
「監督、俺たち、まだやれます」
「わかってる」
延長前半、両チームとも、足が止まり始めていた。
それでも、ゴールへの執念だけは、衰えなかった。
延長前半、スコアは動かなかった。
両チームとも、足を止めずに走り続けた。
数少ないチャンスを、互いに慎重かつ貪欲に狙っていた。
キーパー同士のファインセーブが、何度も続いた。
延長後半。
残り時間、十分。
拓人はベンチで拳を、握りしめた。
これが、決勝の重さだった。
一つのミス、一つの奇跡。
そのどちらかが、すべてを決める。
光が、中盤でボールを拾った。
疲れ切った足を、それでも前に運ぶ。
木村がその動きに気づいた。
裏へのスペースへ、走り込む。
光の視界に、木村が入った。
これまで、何度も繰り返してきた、あの連携だった。
パス。
木村がボールに追いつく。
ゴールキーパーと、一対一。
シュート。
その瞬間、審判の笛が鋭く鳴り響いた。
オフサイド。
判定が、覆ることはなかった。
VARの確認にも時間がかかった。
その数分間、スタジアム全体が息を止めていた。
木村はピッチに膝をつき、しばらく動けなかった。
拓人はベンチから、ただ見守るしかなかった。
スタジアムにどよめきが広がる。
拓人は思わず天を仰いだ。
延長後半、残り時間、五分。
決着は、まだつかなかった。
その先に、待っているものが、何なのか。
拓人にも、まだわからなかった。
光がゆっくりと立ち上がった。
呼吸を整え、もう一度前を見る。
疲労の限界は、とうに超えていた。
それでも足は止まらなかった。
拓人はベンチから、その背中を見つめ続けた。
◆次回予告◆
延長後半、残された五分間。
浦和レッズの、最後の一手とは。
アジアの頂点をかけた戦いが、最終局面を迎える。
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