第83話 準決勝前夜
ホテルの部屋で、スマートフォンが震えた。
節子からだった。
「拓人さん、結衣がね」
その一言に、拓人は椅子から立ち上がった。
「どうしたんですか」
「熱、38度、超えてて」
拓人は時計を見た。
日本との時差は、六時間。
向こうは深夜だった。
「病院は」
「明日の朝、連れて行くわ。今夜は、様子を見る」
節子の声は、努めて冷静だった。
それでも、微かな不安が滲んでいた。
「代わって、もらえますか」
画面に、結衣の顔が映った。
赤い頬、うるんだ目。
「ぱぱ」
かすれた声。
「ここにいるよ」
拓人は画面越しに、そう答えるしかない。
「そっちに、行けなくて、ごめんな」
結衣は、小さく頷いただけだった。
通話を切った後、拓人はしばらく、ベッドの端に座っていた。
抱き上げることも、額に手を当てることも、できない。
画面越しの言葉だけが、今の自分にできることだった。
翌朝、練習に出た。
準決勝の相手は、カタールの強豪だった。
かつて旧ACLで、優勝経験を持つ名門。
映像を開いても、頭に入ってこなかった。
「監督」
光が隣に来た。
「何か、あったんですか」
拓人は少し迷ってから、答えた。
「結衣が、熱を出してる」
「日本の、結衣ちゃんが」
「ああ」
光は、しばらく黙っていた。
「行けないの、辛いですね」
その一言が、思いのほか深く刺さった。
光が続けた。
「俺、家族いないから、わからないですけど」
「でも、コーチが遠くから、俺たちのこと見ててくれたあの感じ」
「結衣ちゃんにも、同じことしてるんだと思います」
光の言葉に、拓人は少し救われた気がした。
「行きたいさ」
拓人は正直に、言った。
「でも、今は、ここにいるしかない」
木村も、話に加わってきた。
「監督、俺たちに任せてください」
「今日の練習くらい、自分たちで回します」
拓人は、その言葉に首を横に振った。
「いや。俺の仕事だ」
「両方、やる」
選手たちが、その言葉に少し、驚いた顔をした。
それでも誰も、それ以上何も言わなかった。
木村が、後になって翔太に、小さく言った。
「監督、ああいう時、絶対、両方やる人だよな」
翔太は、頷いた。
「だから、俺たちも、ついていきたくなるんです」
その夜、再び節子から、連絡が来た。
「熱、下がってきたわ。37度台まで」
「そうですか」
拓人は思わず、息を吐いた。
「心配、かけて、ごめんなさいね」
「謝らないでください。ありがとうございます」
画面越しに、結衣の寝顔が映った。
穏やかな呼吸。
その姿に、拓人はようやく、少し安堵した。
「明日、ちゃんと、勝ってきてね」
結衣の小さな声が、そう付け加えられていた。
拓人は、その一言を何度も、心の中で繰り返した。
通話を切った後、拓人は映像資料を開き直した。
カタールの強豪。
パスワークの精度が、際立つチームだった。
観察して、待って、信じる。
育児で繰り返してきた言葉が、今また力になっていた。
遠く離れていても、できることはある。
信じて、待つこと。
それも一つの、支え方だった。
深夜、拓人はノートに戦術を書き込み続けた。
窓の外、ジッダの夜が静かに更けていく。
明日、これまでで最も厳しい相手と向き合うことになる。
その覚悟が、少しずつ固まっていった。
遠く離れた家族と、目の前の選手たち。
そのどちらもが、拓人を支える力になっていた。
◆次回予告◆
準決勝、カタールの強豪との一戦が始まる。
異国の地で、拓人が下す采配とは。
家族を思う気持ちを胸に、決勝への切符を懸けた戦いが幕を開ける。
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