第82話 準々決勝
ラウンド16を突破した、翌週。
練習場のミーティングルームに、選手たちが集まっていた。
前のスクリーンに、強化部長の坂上が準々決勝の組み合わせを映し出す。
「相手、決まりました」
坂上の声が、少しだけ硬い。
画面に並んだクラブ名を見て、何人かが息をのんだ。
サウジアラビアの強豪。西地区の、優勝候補の一角だ。
拓人は立ち上がって、選手たちの方を向いた。
「ここからは、東も西もない。準々決勝から先は、全部ジッダでやる」
「集中開催ですか」と誰かが聞いた。
「そうだ。ホームもアウェーもない。一発勝負。負けたら、そこで終わりだ」
部屋が静かになった。
「向こうにとっては、ほぼホームだ。暑さも、声も、全部が相手の味方になる」
拓人は、一人ひとりの顔を見た。
「それでも、勝つ準備はできる。今日から、それをやる」
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出発の朝。
エルザタワーの玄関で、拓人はスーツケースの取っ手を伸ばした。
「パパ、頑張ってね」
葵が、真正面から抱きついてきた。
中学生になったばかりなのに、こういうところは変わらない。
節子は、眠そうな結衣を抱いていた。
「テレビで応援してるからね。お父さん、朝から録画予約を3回も確かめてたわよ」
「3回」
「4回目をやりそうだったから、止めたの」
拓人は、少し笑った。
靴を履いていると、背中に声がかかった。
「勝てよ」
航太だった。
振り返ったときには、もう廊下の奥へ歩き出していた。
高校2年の背中は、いつの間にか拓人と同じくらいの幅になっている。
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ジッダの空港に降り立つと、乾いた熱が全身を包んだ。
空気そのものが、重い。
「監督、暑いっすね」
右サイドバックの木村が、額の汗をぬぐいながら言った。
「暑さも、相手の一部だ」
光は、さっそく日陰を探してストレッチを始めていた。
「でも監督、日本の夏よりはマシですよ」
「強がるな」
「強がってません。本当です」
周りの選手たちが、小さく笑った。
こういう笑いが出るうちは、大丈夫だ。
拓人は、そう思った。
最初の三日間は、ほとんど体を慣らすことに使った。
練習は日が落ちてから。昼間は、ホテルで休ませた。
水の量。睡眠の時間。食事の残し方。
拓人は、選手一人ひとりの様子を見て回った。
誰が無理をしているか。誰が眠れていないか。
子供の顔色を見るのと、やることは同じだった。
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練習の後、光が隣に来た。
「監督、緊張してます?」
「してる」
「俺もです」
拓人は、ピッチの向こうに沈んでいく夕日を見た。
「でも、ここまで来たんだ。あとは、やるだけだ」
光は、黙って頷いた。
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試合前夜。
ホテルの廊下で、翔太に呼び止められた。
ボランチの控え。今大会、まだ一度もピッチに立っていない。
「監督。あのスタジアム、映像で何度も見てたんです。子供の頃から」
「憧れの場所か」
「はい。でも、今は」
翔太は少し考えてから、続けた。
「憧れより、勝ちたい気持ちの方が強いです」
拓人は、その目を見た。
まっすぐだ。
一年半前、二人で牛丼を食べた夜のことを思い出した。
何が得意だ、と聞いたら、翔太は少し照れて言った。
パスコースを読むのだけは、昔から得意なんです。
「明日、出番があるかもしれない。準備しておけ」
「はい」
翔太の返事は、廊下に小さく響いた。
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キング・アブドゥッラー・スポーツシティ・スタジアム。
夜になっても、熱は引かなかった。
満員のスタンド。その大半が、相手のサポーターだ。
太鼓の音が、腹の底に響いてくる。
アウェーの空気を、これほど強く感じたことはなかった。
キックオフ。
相手の個の力は、これまでで最高だった。
一人で二人を剥がしてくる。体をぶつけても、びくともしない。
前半だけで、二度、決定機を作られた。
一度目は、キーパーが指先で弾いた。
二度目は、木村が体を投げ出して止める。
浦和も、光の突破で何度か押し返した。
でも、ゴール前で最後の一枚がはがせない。
前半、0-0。
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ロッカールーム。
選手たちの息が荒い。何人かは、ユニフォームを絞れるほど濡れていた。
拓人は、ホワイトボードの前に立った。
「後半、勝負に行く」
マーカーで、右サイドに線を引いた。
「木村、高い位置を取れ。後ろは、ボランチが一枚下がって埋める」
木村が頷いた。
「光は、中で待て。木村からのボールは、必ず来る」
「わかりました」
「リスクは取る。でも、取り方は間違えるな。全員で、同じ方向を向いていれば大丈夫だ」
選手たちが、深く頷いた。
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後半、開始早々。
浦和が、右から押し込み始めた。
木村が、タッチライン沿いを駆け上がる。
相手のサイドハーフが、ついてこられない。
顔を上げた。
クロス。
ゴール前に、光が飛び込んでいた。
頭で、合わせる。
ボールが、ネットに突き刺さった。
先制。
一瞬、スタジアムから音が消えた。
その静けさの中で、アウェーの一角だけが爆発した。
日本から遠く離れた異国の地に、小さな歓喜の輪が生まれている。
拓人は、ベンチの前で拳を握った。
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そこから、相手が変わった。
前線に人数をかけて、なりふり構わず押し込んでくる。
スタンドの声が、地鳴りのように膨らんでいく。
後半三十分。
ペナルティエリアの外から、強烈なミドルシュートが飛んできた。
キーパーが反応する。届かない。
1-1。
スタンドが揺れた。
浦和の選手たちの足が、目に見えて止まり始めていた。
暑さと、圧力と、追いつかれたという事実。
ベンチの空気が、重く沈んだ。
拓人は、相手のボランチを見ていた。
前半から、ずっと見ていた。
ボールを受ける前に、一瞬だけ左肩が下がる。
前半には、なかった癖だ。
疲れた人間は、癖を隠せなくなる。
結衣がぐずり出す前に、決まって口をとがらせるのと同じだ。
本人は気づいていない。でも、見ていればわかる。
「翔太」
ベンチの端で、翔太が顔を上げた。
「あの7番。ボールを受ける前に、左肩が下がる。下がったら、次は必ず右に出す」
翔太の目が、相手のボランチに向いた。
「そこだけ狙え。ほかは考えなくていい」
「はい」
後半三十三分。翔太が、ピッチに入った。
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後半四十分。
相手の7番に、ボールが入ろうとしていた。
左肩が、下がった。
その瞬間には、翔太はもう動いている。
右へ。
出てきたパスの前に、翔太の足があった。
奪った。
顔を上げる。
右サイドを、木村が駆け上がっていた。後半の頭から、ずっと上がり続けていた男だ。
翔太のパスが、木村の前に転がった。
木村は、迷わなかった。
右足を、振り抜く。
ボールが、キーパーの指先をかすめて、ゴールの左隅に吸い込まれた。
2-1。
スタジアムの大半が、静まり返った。
その中で、小さな歓声だけが、確かに響いていた。
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試合終了の笛。
浦和レッズ、準々決勝突破。
選手たちが、ピッチの上で抱き合った。
光が、木村に駆け寄った。
「お前、サイドバックだろ。なんでそこにいるんだよ」
「監督が、上がれって言ったんで」
「上がりすぎだろ」
光は笑いながら、木村の頭をぐしゃぐしゃにした。
それから、翔太の方を向いた。
「翔太。お前、読んでただろ」
翔太は、少し照れたように言った。
「監督に、読めって言われたんで」
ベンチに戻ってきた翔太が、拓人の前で立ち止まった。
「監督。あの牛丼の夜の話、覚えてたんですね」
「覚えてる」
拓人は、翔太の肩を叩いた。
「全員分、覚えてる」
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その夜、ホテルの部屋。
スマートフォンに、節子からメッセージが届いていた。
「見てたわよ。すごい試合だった」
「お父さん、最後は立ち上がってたわ。結衣も一緒に跳ねてた」
拓人は、その文面にしばらく目を落としていた。
ドアがノックされた。坂上だ。
「準決勝の相手は、明日の試合の勝者です。移動と練習の段取り、今夜中に組んでおきます」
「頼む。でも、少しは寝ろよ」
「監督こそ」
坂上が出ていった後、拓人は窓の外を見た。
ジッダの夜空は、川口よりずっと星が多かった。
決勝まで、あと二つ。
画面には、川口のグループチャットが開いていた。
佐藤。蓮。フェニックスの子供たち。
一番上に、佐藤のメッセージがあった。
「勝ったな。寝ろ」
拓人は少しだけ笑って、電気を消した。
暗い部屋で、枕元のスマートフォンが、もう一度だけ光った。
画面には、節子の名前が表示されている。
拓人は、もう眠っていた。
◆次話予告◆
準決勝の相手が決まる。
ジッダのホテルに、日本から一本の電話が入る。
帰れない夜が、始まる。
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