第75話 埼玉スタジアムの夜
キックオフ二時間前。
拓人はスタジアムの通路で、誠からのメッセージを見返していた。
「着いた。北側の、いつもの席だ」
短い文面。
拓人はそれだけ見て、スマートフォンをしまった。
ロッカールームへ向かう。
通路の先、選手たちの声が聞こえる。
拓人は一度、深呼吸をした。
扉を開ける。
光がすでに、準備を終えていた。
「監督、今日、誰か来るんですか」
「ああ」
「珍しいですね」
「珍しいんだ」
それだけ答えて、拓人はホワイトボードにフォーメーションを書き始めた。
光が少し笑った。
「今日は、勝ちましょう」
「当然だ」
木村も、輪に入ってくる。
「監督、誰が来るんですか」
「義理の父さんだ」
「へえ」
木村が興味深そうに、頷いた。
拓人はそれ以上、説明しなかった。
翔太が、隣で頷く。
木村がスパイクの紐を、結び直していた。
いつもの光景。
いつもと違う夜。
キックオフの笛。
浦和が序盤から、主導権を握る。
前線からのプレスが噛み合っていた。
光がボールを奪う。
木村へ。
木村から、翔太へ。
翔太のスルーパスが、若手のフォワードを走らせる。
シュート。
ゴール。
前半十分。
先制。
スタジアムが揺れる。
拓人は拳を握った。
光が若手のもとへ、駆け寄る。
「ナイスラン!」
若手が照れくさそうに頷いた。
木村が、拓人のいるベンチに目配せを送る。
拓人も、小さく頷き返した。
北側のスタンドを一瞬、見上げる。
小さく人影が動いた気がした。
後半、相手が押し返してくる。
一点を返され、同点。
ベンチの拓人は動じなかった。
「翔太、下げる。光、右に回れ」
指示を短く出す。
選手たちが即座に動いた。
数ヶ月かけて体に染み込ませてきた形だった。
相手の攻撃が勢いを増す。
決定機。
木村が体を投げ出して防ぐ。
コーナーキック。
拓人はベンチで腕を組んだ。
ここが踏ん張りどころだった。
後半三十分。
光が右サイドから、深くえぐる。
クロス。
木村のヘッド。
決勝点。
そのまま試合は終わった。
二対一。
監督としての、初勝利。
選手たちが抱き合う。
拓人は、ゆっくりと北側のスタンドを見上げた。
誠が、立っていた。
拍手をしていた。
大きな声を出す人ではない。
それでも、両手は、しっかりと鳴っていた。
光が拓人の視線に気づいた。
「監督、あそこ、誰ですか」
「義理の父さんだ」
「なるほど」
光は、それだけ言ってまた、選手たちの輪に戻っていった。
試合後、記者たちに囲まれた。
「監督としての初勝利、いかがですか」
「選手たちが、やってくれました」
短く答えて拓人は会場を出た。
駐車場で、誠が待っていた。
「お疲れ」
「見に来てくれて、ありがとうございます」
誠は少し、頷いただけだった。
二人で、しばらく無言で歩いた。
駐車場の街灯が、二人の影を長く伸ばす。
誠の足音。
拓人の足音。
それだけが、しばらく続いた。
「今日の後半、選手を入れ替えただろう」
「見てたんですか」
「わかるさ、それくらい」
誠がぽつりと続けた。
「拓人らしいやり方だったな」
「らしい、ですか」
「サッカーは詳しくない。でも、あれは」
誠は少し、言葉を選んだ。
「子供を見る目だ。同じだよ」
その一言に、拓人は、何も返せなかった。
拓人は口を開きかけて、閉じた。
代わりに、小さく頷いた。
車まで、また無言で歩く。
家に帰ると、節子が、温かい味噌汁を、用意していた。
葵が飛びついてくる。
「パパ、勝ったの?」
「勝った」
「やったー!」
結衣も、真似して、両手を上げた。
航太がキッチンから、顔を出す。
「点差、見たよ。二対一」
「見てたのか」
「うん、ネットで速報」
航太は、それだけ言うとまた部屋に戻っていった。
節子が味噌汁を、拓人の前に置く。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
湯気が静かに、立ち昇っていた。
その夜、拓人は一人、ノートを開いた。
今日の試合のメモを取るためだった。
前半の守備の連動。
後半の交代のタイミング。
書きながらあることに、気づいた。
自分たちの戦い方が、いつの間にか一つの形になりつつある。
海外で見てきた組織的な守備。
日本人選手が持つ規律と、我慢強さ。
その二つが、ようやく噛み合い始めていた。
ノートのページが、埋まっていく。
これは、まだ完成形ではない。
拓人はペンを止めた。
窓の外、月が高く昇っていた。
ノートを閉じる。
明日から、この形をさらに突き詰めていく。
次に見えてくるものが、何なのか。
その答えを探す作業が、すでに始まっていた。
◆次回予告◆
初勝利の夜が明ける。
拓人のノートに、新しい戦術の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていく。
欧州で見た理論と、日本人選手の特性。
その融合が、完成に近づこうとしていた。
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