第74話 川口に電話
電話の向こうで佐藤が、小さく笑った。
「拓人、覚えてるか。フェニックスで初めて蓮を指導した日のこと」
「覚えてます」
「あの時から、お前には見る目があった」
佐藤の声には、誇らしさがにじんでいた。
「今日の采配、翔太を後半から入れたんだろう」
「なぜ、知ってるんですか」
「木村って選手がSNSに書いてたんだよ。監督の判断が光ってたって」
拓人は少し黙った。
自分の知らないところで、そんな言葉が交わされていた。
ほかにも、いくつか投稿があったらしい。
「新監督、選手をよく見てる」
「元プレーヤーとは思えない、緻密な采配」
そんな声が、少しずつ広がっているという。
それでも拓人には、まだ実感がなかった。
「兄貴」
「なんだ」
「不安なんです。正直」
拓人は、素直に口にした。
「監督として、これでいいのかどうか」
佐藤は、しばらく黙っていた。
「拓人、育児の時は迷わなかったか」
「迷いっぱなしでした」
「だろうな」
佐藤が笑う。
「それでも、お前は三人、ちゃんと育ててきた」
「監督も同じだ。迷いながらやればいい」
拓人は、黙って聞いていた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。むしろ、こっちが嬉しいんだよ」
佐藤の声が、少し震えた。
「あの荒れてた拓人が、今じゃ監督だからな」
電話の向こうで、鼻をすする音がした。
「兄貴、泣いてます?」
「泣いてねえよ」
その否定が、答えだった。
拓人は思わず笑った。
「今度、蓮に話してもいいか。お前が監督になったこと」
「もちろんです」
「あいつ、お前のことずっと目標にしてるからな。喜ぶぞ」
蓮の名前を聞いた瞬間、拓人の脳裏にフェニックスの日々が浮かんだ。
土手の道。
練習の声。
決勝の夜。
あの頃、蓮に伝えていたことを、今はプロの選手たちに伝えている。
立場は変わった。
それでも、根っこは変わらない。
一人の選手を信じること。
その選手が自分で答えを出すまで待つこと。
拓人の指導は、そこから始まっていた。
「節子さんと誠さんにも伝えてもらえますか」
「ああ、任せろ。今夜のうちに電話するよ」
「よろしくお願いします」
「よし。じゃあな、監督」
「監督って呼ぶの、やめてください」
「いいだろ。少しくらい」
佐藤の笑い声が聞こえた。
そこで、電話が切れた。
その夜。
佐藤は拓人との電話を切ると、すぐに節子へ電話をかけた。
「節子さん、聞きました? 拓人が監督になったこと」
「ええ。さっき拓人さんから聞いたわ」
「引き分けだったけど、いい試合だったらしいですよ」
「誠さんもテレビで見てたみたいなの」
「あの人、無口だけど。画面に向かって何度も頷いてたって」
節子が、くすりと笑った。
翌朝。
佐藤は練習に来た蓮へ、その話を伝えた。
「拓人さんがプロの監督になったんだって」
蓮が目を見開いた。
「本当?」
「本当だ。しかも、苦手なチームから勝ち点をもぎ取ったらしい」
蓮は、しばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。
「俺、いつか拓人さんの下でプレーしたいです」
その言葉に、佐藤は目を細めた。
「言ってやれよ。本人に」
「今度、連絡してみます」
蓮の声には、迷いがなかった。
佐藤は、その横顔を見つめた。
拓人がここで始めたことが、また一つ繋がっていく。
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
一方、その頃。
拓人の自宅では、誠がノートに何かを書いていた。
「お父さん、何書いてるの?」
葵が覗き込む。
誠は少し照れたように、ノートを閉じた。
「次の試合の予定だ」
「見に行くの?」
「行こうと思ってる」
誠は、それだけ言った。
これまで、拓人の試合を直接見に行くことは、ほとんどなかった。
だが今回は違った。
節子は、そんな誠を黙って見ていた。
「珍しいわね。あなたがそんなに乗り気になるなんて」
「拓人が、自分の力で勝ち取ったものだからな」
誠は、静かに答えた。
節子は何も言わなかった。
ただ、その横顔を見つめていた。
その夜。
拓人は自分の部屋で、次節の日程を確認していた。
埼玉スタジアム。
ホームゲーム。
初めて、あの場所で指揮を執る。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
誠からだった。
短いメッセージが、一件だけ届いている。
「次の試合、見に行く」
拓人は、しばらく画面を見つめた。
誠が自分から応援に来ると言ったのは、初めてだった。
拓人は、ゆっくり息を吐いた。
そして、返信を打つ。
「待ってます」
送信。
それだけだった。
それでも、今は十分だった。
拓人はスマートフォンを伏せる。
もう一度、日程表を見る。
次の試合が、これまでとは違って見えた。
◆次回予告◆
誠が、初めてスタジアムへ足を運ぶ。
埼玉スタジアムに響く声援。
その中で、拓人は監督として初勝利を狙う。
ピッチの外には、家族がいる。
そして拓人は、まだ知らない。
その日の試合が、自分だけのものではなくなることを。
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