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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第71話 神崎解任

本部棟の窓を、拓人はしばらく見つめ続けていた。


選手たちも、練習を始める様子はない。


グラウンドに重い沈黙が広がっていた。


木村が拓人の隣で、小さく呟いた。


「コーチ、まさか、本当に」


「まだ、わからない」


拓人はそう答えるしかなかった。


心の中では、悪い予感の方が確信に近づいている。


光も少し離れた場所で、無言のまま地面を見つめていた。


昨夜まで積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。


そんな空気が、グラウンド全体を覆っている。


若手選手の一人が、ぽつりと言った。


「監督、クビになるんですかね」


誰もその問いに答えられなかった。


光だけが、無言のまま、じっと本部棟の窓を見上げていた。


その横顔には、四日間の無断欠席から戻ってきたあの日と、同じ緊張が浮かぶ。


三十分ほどが経った頃、本部棟の扉が開いた。


神崎が一人で歩いてくる。


その足取りは、いつもより、ずいぶんゆっくりだ。


拓人は思わず駆け寄った。


「監督」


神崎は静かに笑った。


「拓人、お前に、心配かけたな」


その表情には、どこか覚悟のようなものが滲んでいた。


「みんな、集めてくれ」


拓人は頷き、選手たちに声をかけた。


グラウンドの中央に、選手たちが集まってくる。


光も木村も、不安げな表情を隠せずにいる。


神崎は一同を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。


「今日付けで、監督を解任された」


その一言に、グラウンドの空気が凍りついた。


誰も声を出せなかった。


「フロントの決定だ。文句は言わない」


「結果が出なかった。それだけのことだ」


神崎の声は静かだが、はっきりとしていた。


神崎はこの浦和レッズで、選手として、そして指導者として、二十年近くを過ごしてきた。


その重みを拓人は、あらためて実感していた。


木村が真っ先に、口を開いた。


「そんな、監督、俺たち」


「いいんだ」


神崎は木村の言葉を、優しく遮った。


「お前らのサッカーは、間違ってなかった」


「四連勝した時のあの空気を、俺は一生忘れない」


光が、拳を強く握りしめていた。


「監督のおかげです、俺たちが変われたのは」


「違うな」


神崎は小さく首を振った。


「お前らが自分たちで変わったんだ」


「俺は少し、背中を押しただけだ」


選手たちの間から、すすり泣きが漏れ始める。


拓人はその光景をじっと見つめていた。


言葉が何一つ出てこなかった。


神崎は選手たち一人ひとりの顔を、順に見ていった。


若手選手にも、木村にも、光にも、同じだけの時間をかけた。


「胸を張って、次の試合に臨め」


「それが、俺への一番の恩返しだ」


光が、堪えきれなくなったように、一歩、前に出た。


「監督、ありがとうございました」


その声は、震えていた。


これまで、誰にも心を開かなかった光が、初めて、人前で見せる涙だった。


選手たちが、深く頭を下げる。


その姿を神崎はしばらく黙って見つめていた。


やがて拓人に目配せをすると、少し離れた場所へ移動した。


「拓人」


「はい」


神崎はまっすぐに、拓人を見た。


「後任は、まだ決まってない」


「でも、お前に伝えておきたいことがある」


拓人は黙って続きを待った。


「お前が、このチームを世界へ連れて行け」


その一言は、想像していたよりも、はるかに重い。


「俺には、荷が重すぎます」


「そうか?」


神崎は小さく笑った。


「篠田を変えたのは、お前だ」


「チームの空気を変えたのも、お前だ」


「俺は、ただそれを見てただけだ」


拓人は何も言い返せない。


「川口で、育児をしながら鍛えられたんだろう」


「その力は本物だ。俺が保証する」


神崎の目には、迷いがなかった。


その言葉は、拓人の記憶の奥にある、別の声と重なった。


「待て。急ぐと、逃げる」


佐藤の言葉と、神崎の言葉。


立場も、場所も違う二人が、同じように、拓人の背中を押してくれていた。


「後任人事は、フロントがどう動くかわからない」


「だが、もし機会が来たら」


「逃げるなよ」


その言葉を最後に、神崎は背を向けた。


神崎は、そこで一度、言葉を止めた。


「一つだけ、忠告しておく」


「監督ってのは、孤独な仕事だ」


「誰も、本当の意味では、支えてくれない」


「だが、お前には、支えがあるだろう」


拓人は家族の顔を思い浮かべた。


節子、誠、航太、葵、結衣。


そして、光や木村たち、選手全員の顔も。


「それを、忘れるな」


神崎の言葉に拓人は深く頷いた。


グラウンドを出て行く後ろ姿に、拓人は深く頭を下げた。


選手たちも、それぞれのやり方で神崎を見送っていた。


光が拓人のそばに来て、静かに聞いた。


「コーチ、これから、どうなるんですか」


「まだわからない」


「不安ですか」


拓人は少し考えてから答えた。


「不安だ。でも、それだけじゃない」


光はそれ以上、聞かなかった。


代わりに、小さく頷く。


「俺たちは、コーチについていきます」


「監督が誰になっても」


その一言に、拓人は胸が熱くなるのを感じた。


木村も、若手選手たちも、その言葉に頷いていた。


これまでの日々が確かに、選手たちの中に根づいている。


その手応えを、拓人は静かに噛みしめた。


誰かが去り、誰かが新しい役割を担う。


その連続の中で、チームというものは、形を変えながら続いていく。


拓人は、その事実をあらためて実感していた。


木村が、少し離れた場所から拓人の様子を、じっと見ていた。


その視線には、これまでにない、まっすぐな信頼が宿っているように見えた。


練習が再開された。


いつもより静かな練習だった。


だが、その静けさの中に、確かな覚悟が宿っているように見えた。


夕方、練習が終わり選手たちが引き上げていく。


その中を、事務局の職員が拓人のもとへやってきた。


「糸井コーチ」


拓人は振り返った。


「坂上、強化部長がお呼びです」


その一言に、拓人の心臓が大きく跳ねた。


「今からですか」


「はい。至急とのことです」


拓人はグラウンドを、もう一度見渡した。


光や木村が、遠くでこちらを見ている。


先ほどの言葉が、頭の奥で、静かに反響していた。


進退の話なのか。


それとも、まったく別の話なのか。


想像しても、答えは出てこなかった。


拓人は深呼吸をひとつして、本部棟へ向かって歩き出した。


その足音だけが静かなグラウンドに、いつまでも響いていた。


◆次回予告◆


坂上に呼び出された拓人を待っていたのは、思いもよらない打診だった。


昨日まで選手たちの背中を見ていた男に、突きつけられる重すぎる決断。


「暫定でいい。監督を、引き受けてくれないか」


その一言が、拓人の人生を大きく動かし始める。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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