↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/83

第69話 葵の絵、ふたたび

翌朝、拓人はいつもより早く目を覚ました。


リビングに降りると、葵がすでに起きてテーブルに向かっていた。


画用紙をそっと隠すように腕で覆っている。


「おはよう、葵」


「あ、パパ、おはよう」


葵は慌てて画用紙を裏返した。


その仕草に拓人は思わず笑った。


「それが見せたいものなのかい?」


「まだダメ。今日の夜、ちゃんと見せるから」


葵はそう言うと、画用紙を大事そうに小脇に抱え部屋へ戻っていった。


拓人はその背中を見送りながら、節子の淹れてくれたコーヒーを口にした。


節子がキッチンから顔を出した。


「あの子、昨日からずっとあの絵を描いてたのよ」


「昨日から?」


「学校から帰って、宿題もそこそこに机に向かってたわ」


「よっぽど見せたいものがあるのね」


拓人はその様子を想像して、自然と頬が緩んだ。


娘が、そこまで熱心に取り組んでいるものが何なのか。


想像するだけで朝から胸が弾んだ。


一日、練習をしながらも、頭の片隅にはずっと葵の絵のことがあった。


グラウンドでは四連勝の余韻が、まだ選手たちの間に残っていた。


光が木村と談笑しながらパスの練習をしている。


その光景を見るたびに、拓人の胸に静かな充実感が広がった。


光が練習の合間に、拓人のもとへ駆け寄ってきた。


「コーチ、今日、早く帰るって本当ですか」


「ああ、家族との約束があってな」


「珍しいですね」


「たまにはな」


光は少し意外そうな顔をしたあと、小さく笑った。


「行ってきてください。俺たちは大丈夫なんで」


その言葉に拓人は頼もしさを覚えた。


数ヶ月前には、想像もできなかった変化だ。


だが今日は、いつもより早く練習を切り上げた。


「今日は、家族と約束があるんだ」


拓人がそう言うと、神崎が笑った。


「珍しいな、お前がそんなこと言うの」


「たまには」


「行ってこい。連勝の疲れも、たまには家で癒せ」


その言葉に甘えて、拓人は少し早めにグラウンドを後にした。


エルザタワーに帰り着くと、家の中はいつもより賑やかだった。


結衣がリビングの床で積み木を積んでいる。


航太は宿題をしながら、時折、玄関の方を気にしていた。


「パパ、おかえり」


航太が真っ先に声をかけてきた。


「早いな、今日は」


「うん。葵が、パパまだかなって何回も聞いてたから」


その一言に拓人の胸が小さく温かくなった。


結衣が積み木を放り出して、拓人の足元に駆け寄ってきた。


「ぱぱ、だっこ」


拓人は結衣を抱き上げ頬を寄せた。


小さな体の温もりが、一日の疲れを少しずつ溶かしていく。


節子がキッチンから夕食の支度の音を響かせていた。


いつもと変わらない川口の夕方だ。


でも今日は、その当たり前の光景がいつも以上に愛おしく感じられた。


夕食のあと、葵が画用紙を持ってリビングに現れた。


「準備、できたよ」


その声には、いつになく緊張が滲んでいた。


家族全員がテーブルの周りに集まった。


節子と誠も隣の部屋から顔を出した。


「見て」


葵が画用紙をそっと差し出した。


そこに描かれていたのは、緑のグラウンドと白いベンチだった。


ベンチには一人の男性が座っている。


腕を組み、真剣な表情でピッチを見つめる姿だった。


その周りには、たくさんの選手たちが色とりどりのユニフォームで走り回っている。


拓人はしばらく、その絵から目を離せなかった。


「これ、パパ?」


「うん」


葵は少し照れくさそうに頷いた。


「前に描いた絵、覚えてる? パパの仕事の絵」


「もちろん、覚えてる」


「あの時のパパは、試合してるパパだった」


「今のパパは違うでしょ」


拓人は静かに、その先を待った。


「今のパパは、みんなを見てるパパだから」


「だから、ベンチのパパを描きたかったの」


その一言で拓人の目頭が熱くなる。


「葵」


「なに?」


「ありがとう」


それだけ言うのが精一杯だった。


葵は少し驚いた顔をしたあと、はにかむように笑った。


節子が絵を覗き込んで目を細めた。


「上手に描けたわね」


「うん。何回も描き直したの」


「ベンチの角度が難しくて」


「何回、描き直したんだ」


「五回くらい」


「そんなに?」


「だって、パパの顔ちゃんと描きたかったから」


葵は真剣な表情で、そう答えた。


その言葉の重みに、拓人はしばらく声が出なかった。


葵がそう説明する様子を、誠が珍しく声を出して聞いていた。


「拓人」


誠が静かに言った。


「お前、いい仕事してるんだな」


「ありがとうございます」


「遥も、きっとこの絵、見たがってたと思うよ」


誠はそう言うと、少し遠い目をした。


「遥がな、生きてた頃、よく言ってた」


「拓人が、誰かに必要とされる場所を見つけてくれたらって」


「そう、だったんですか」


「サッカー選手としてじゃなく、人としてだ」


誠の言葉はいつになく饒舌だった。


「この絵を見て確信したよ。あいつの願い、ちゃんと叶ってる」


その一言に、リビングの空気が少しだけしんみりとした。


でも、それは悲しさだけではなかった。


家族みんなで、その静けさをそっと分かち合っていた。


結衣が積み木を崩して無邪気に笑った。


その声に、みんなもつられて笑う。


航太も絵を覗き込んで、感心したように言った。


「葵、絵、うまくなったな」


「航太も、そう思う?」


「うん。前より、ずっと」


兄妹のそんなやり取りに拓人は目を細めた。


三人の子どもたちが、それぞれのやり方で成長している。


その事実が何よりも、拓人の支えになっていた。


拓人はその夜、絵を自分の部屋の壁に飾った。


遥の日記が置かれた棚の、すぐ隣だった。


「二人とも、見ててくれよ」


小さく呟いて、拓人は電気を消した。


その夜は久しぶりに、何も考えずに眠ることができた。


翌朝、拓人のスマートフォンが練習前に鳴った。


神崎からの電話だ。


「拓人、フロントから連絡があった」


「何かあったんですか」


「次節の相手、去年の王者だ」


「しかも、その後の日程が鬼のようにきつい」


神崎の声には、これまでにない硬さがあった。


「四連勝の勢いを、フロントは当然のように見てる」


「連勝が止まった時、何て言われるか」


拓人はその言葉に静かに息を呑んだ。


昨夜の温かさが、まだ胸に残っている。


でも同時に、これから待ち受けるものの重さもはっきりと感じ取っていた。


「わかりました。準備、進めます」


「フロントは、勝てば当たり前、負ければ責める。そういうもんだ」


「気にしなくていい、とは言えないですね」


「言えないな。でも、お前はちゃんと結果を出してきた」


「今回も、大丈夫だと俺は思ってる」


神崎の言葉に、拓人は少しだけ肩の力が抜けた。


電話を切ったあと、拓人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


家族の笑顔と、チームへの重圧。


そのどちらもが、今の自分を形づくっているものだった。


グラウンドへ向かう足取りに、これまでとは違う緊張が混じり始めていた。


それでも、玄関を出る時、拓人の胸には確かな強さがあった。


昨夜、家族が見せてくれた笑顔。


葵が五回も描き直してくれた絵。


そのすべてが、これから向き合う重圧に立ち向かう力を静かに与えてくれていた。


◆次回予告◆


去年の王者との対戦を前に、フロントの視線が急に厳しくなる。


四連勝という結果は、いつしか当たり前のものへと変わっていた。


勝ち続けることの本当の怖さを、拓人はまだ知らなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現代ドラマ ヒューマンドラマ スポーツ サッカー 家族 感動 シングルファーザー 育児 涙腺崩壊注意 実話風 成長物語 Jリーグ 海外サッカー 父と子 泣ける ノンファンタジー 元プロサッカー選手 レアル・マドリード 浦和レッズ 埼玉 川口
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。