第68話 レッズの快進撃
グランパス戦当日、埼玉スタジアムはいつになく静かだった。
上位相手への諦めムードが、スタンドの空気にも滲んでいた。
ロッカールームで、神崎が選手たちを見渡した。
「今日は、堂々とやってこい。それだけだ」
短い言葉だった。
だが、いつもより力がこもっていた。
試合前、拓人は光に一つだけ声をかけていた。
「今日は、無理に決めなくていい」
「決めなくていい?」
「お前が繋いだボールで、誰かが決める。それでいい」
光は少し驚いた顔をした。
それから、静かに頷いた。
「わかりました」
拓人は選手たちの顔を一人ずつ見た。
光の目には迷いがなかった。
木村も、いつもより表情が引き締まっている。
「今日、俺たちのサッカーをやろう」
拓人はそう声をかけた。
「個で敵わないなら、全員でやればいい」
「観察して、動く。それだけだ」
円陣が組まれた。
誰からともなく手が重なっていく。
光の手も、その中にあった。
「行くぞ」
拓人の声に、選手たちが声を揃えた。
キックオフの笛が鳴った。
グランパスは予想通り、ボールを支配し始めた。
個人技で、じわじわと押し込んでくる。
だが浦和は下がらなかった。
守備は誰か一人に頼らない。
前線からのプレスを、全員でスイッチしながら連動させる。
拓人がこの数週間、繰り返し伝えてきた形だった。
前半二十分、光が奪ったボールを木村へつなぐ。
木村がドリブルで二人を剥がした。
サイドを駆け上がった若手が、クロスを送る。
光がヘディングで叩き込んだ。
スタジアムが一瞬、静まり返った。
それから地鳴りのような歓声が湧き起こる。
光が両手を広げ天を仰いだ。
だがすぐに、木村のもとへ駆け寄っていった。
「お前のドリブルのおかげだ」
「篠田さんの頭のおかげですよ」
二人で肩を組み合う姿を、ベンチから拓人は見ていた。
これまでの光からは、想像もできない光景だ。
拓人は思わずガッツポーズを作りかけ、慌てて手を戻した。
ベンチの立場を、まだ自分に言い聞かせる必要があった。
後半、グランパスが猛攻を仕掛けてきた。
決定機を、何度か作られた。
その度に誰かが体を投げ出し、シュートを防いだ。
後半三十分、グランパスのエースがペナルティエリア内で反転する。
決定的な場面だった。
だが光がスライディングで、コースを消した。
コーナーキックに逃れながらも、失点は許さない。
スタンドから安堵の拍手が起こる。
木村がラストのクロスを、体を張って弾き出す。
「ナイス、木村!」
光の声がピッチに響いた。
これまで誰かを鼓舞する声を、光が出したことはなかった。
その一言に、チーム全体の士気がまた一段上がった気がした。
試合終了の笛が鳴った時、スコアは一対〇だった。
浦和レッズが開幕から負けなしの首位チームを下した瞬間だった。
選手たちが抱き合って喜ぶ。
木村が光に抱きついた。
光は少し照れくさそうにしながら、その肩を叩き返した。
拓人はその輪を、少し離れた場所から見ていた。
神崎が隣に立った。
「拓人、これが、始まりだ」
「始まり、ですか」
「今日のサッカーが続けられるなら、このチームは変わる」
神崎の声には、確信のようなものが滲んでいた。
試合後の会見で、グランパスの監督が言葉少なに語った。
「浦和の守備は、想像以上に組織的だった」
その一言は、翌朝のスポーツ紙一面に躍った。
果たして、その予感は当たっていく。
翌週のアウェー戦、浦和は二対一で競り勝つ。
さらに翌週、ホームでの一戦を三対〇で快勝した。
三戦目、アウェーの厳しい雨の中でもチームは崩れなかった。
前線から後方まで、ボールを追う運動量がひとつも落ちない。
木村が試合後、汗だくのまま拓人に言った。
「コーチ、これ、絶対しんどいですよ」
「しんどいだろうな」
「でも、勝てるなら、いくらでも走れます」
その言葉に拓人は静かに頷いた。
四連勝。
Jリーグの順位表で、浦和レッズの名前が少しずつ上に動いていく。
開幕当初は中位に沈んでいた順位が、今や五位まで上がっていた。
たった一ヶ月足らずの出来事だった。
この数週間、拓人が選手たちに繰り返し伝えてきたことがあった。
「海外のクラブと同じことをする必要はない」
「規律を守る力、周りを見る力、我慢する力」
「それは、お前たちが昔から持ってるものだ」
「その強みを、もっと信じていい」
その言葉を選手たちは少しずつ体現し始めていた。
個の力で圧倒するのではなく、全員でスペースを埋める。
一人のミスを、全員でカバーし合う。
そうした地道な連携が、結果として勝利につながっていた。
スポーツ紙が「守備から生まれる連勝」という見出しを打った。
日本人選手の規律と連携を軸にした戦術が、注目を集め始めていた。
拓人の名前も、記事の中に小さく取り上げられるようになった。
「新任コーチの手腕」という見出しを、誰かがロッカーに貼っていた。
光がその紙を、少し得意げに指で弾いた。
「コーチ、これ、家に飾らないんですか」
「飾らない」
「もったいないですよ」
拓人は苦笑しながら、その紙を丁寧に剥がした。
「結果より、次の試合の方が大事だ」
その夜、拓人はいつもより遅い時間にエルザタワーへ帰り着いた。
四連勝の疲れと、確かな充実感が体の中で混ざり合っている。
玄関を開けると、リビングの明かりがまだついていた。
節子がソファで、拓人を待っている。
テーブルの上には、温かいお茶が湯気を立てていた。
拓人のために用意してくれていたものだ。
「お帰りなさい。四連勝、テレビで見たわよ」
「見てくれたんですか」
「航太が、録画までしてたの」
拓人は思わず笑った。
「誠さんは?」
「もう、寝ちゃった。でも、ずっとテレビの前にいたわよ」
節子はそう言って、少し笑った。
「結衣も、パパの応援って、テレビに向かって手を振ってたの」
「結衣が?」
「まだ、意味はわかってないと思うけどね」
拓人はその光景を想像して、思わず頬を緩めた。
節子は、少し声のトーンを変えた。
「拓人さん」
「はい」
「葵がね、あなたに見せたいものがあるんですって」
拓人は少し首をかしげた。
「見せたいもの?」
「うん。何かは、教えてくれなかったけど」
「今度、時間ができたら、絶対に見てって、何度も言われたわ」
節子はそう言いながら、少し嬉しそうな顔をしていた。
「元気そうだった?」
「うん。最近、ずっと機嫌がいいのよ」
「そうですか」
「多分、あなたが忙しくても、頑張ってるの、ちゃんと伝わってるんだと思う」
節子の言葉に、拓人は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
娘が、自分に見せたいもの。
それが何なのか、まったく想像がつかない。
でもその一言だけで、今日の勝利とはまた別の温かさが胸に広がっていく。
勝利の高揚とはまた違う、静かな揺れだった。
グラウンドで積み上げてきたものと、家庭で育んできたもの。
そのどちらもが確かに、拓人の中で息づいていた。
拓人はリビングの椅子に、そっと腰を下ろした。
明日、葵に会ったら、まず、それを聞いてみようと思う。
明日からも、この生活は続いていく。
グラウンドでの采配と、家庭での日々。
そのどちらも手放さずにいられることに、拓人は静かな感謝を覚えていた。
遥、見てるか。
拓人は、心の中で、そっと問いかけた。
窓の外では、夜がすっかり更けていた。
四連勝の余韻と、娘からの小さな謎が、拓人の一日を静かに締めくくっていく。
◆次回予告◆
娘の葵が、拓人に見せたいものとは、いったい何なのか。
久しぶりに訪れる、家族だけの時間。
そこで待っていたのは、拓人が思いもよらない、一枚の絵だった。
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