第67話 変化
翌朝、グラウンドに一番乗りしていたのは光だった。
拓人が到着した時には、すでにコーンを並べ終えていた。
「早いな」
「今日から変わるって言ったんで」
光はそれだけ答えて、練習道具を運び始めた。
拓人は少し驚いた。
昨夜のメッセージは本気だったと、改めて実感する。
「手伝おうか」
「大丈夫です」
光は迷いのない動きで、コーンを配置していく。
その几帳面さに、拓人は初めて気づいた。
これまでは誰よりも先に来ても、一人で黙々と体を動かすだけだった。
今日は違う。
準備そのものが、チームのための行動になっていた。
その姿を、選手たちが遠巻きに見ていた。
これまでの光を知る者ほど、戸惑いが濃い。
木村が拓人のそばに来て、そっと聞いた。
「篠田さん、どうしたんですか」
「見てればわかる」
拓人はそう返しただけだった。
ウォーミングアップが始まる。
いつもなら一人で黙々と体を動かす光が、今日は違った。
隣にいた若手選手に、声をかけていた。
「ストレッチ、こっちの方がやりやすいぞ」
声をかけられた選手が、驚いた顔をする。
「篠田さんに話しかけられるの、初めてです」
光は少し照れたように笑った。
その笑顔も、これまで見たことのないものだ。
拓人はグラウンドの端から、その様子を見ていた。
一晩でこれほど変わるものかと、正直驚く。
だが同時に、納得もしていた。
抱えてきたものを言葉にした人間は変わる。
自分自身がそうだったから、よくわかる。
昨夜の公園のベンチが、脳裏によみがえった。
街灯の下で潰された空き缶。
「明日、見ててください」
あの一言に、嘘はなかった。
練習は紅白戦に移った。
光はボールを持てば、違いを見せる。
だが、その使い方が違っていた。
以前ならドリブルで仕掛け、自分で決めきろうとする場面だ。
その日の光は違った。
サイドで待つ木村を見つけると、迷わずパスを出す。
ゴール前に走り込んでいたのは木村だった。
これまでの光なら、目に入らなかった選択肢だ。
シュートよりも確実な形を選んでいる。
その判断力に、拓人は思わず息をのんだ。
木村がそのままゴールを決めた。
ベンチ前で選手たちが沸く。
試合はまだ続いていた。
自陣に戻ってボールを追う光の姿も、これまでにないものだった。
以前なら、守備は最低限で済ませていた。
その日は違う。
奪われたボールを、誰よりも早く取り返しに走った。
チームメイトが、驚いた顔で見送る。
「篠田さん、そこまでやります?」
「やる」
光の返事は短いが、確かな熱を帯びていた。
「篠田さんのアシスト、初めて見た気がします」
誰かがそうつぶやいた。
光は照れくさそうに、頭をかく。
その輪の外にいた若手選手が、拓人にそっと近づいてきた。
入団二年目の、まだ試合経験の少ない選手だった。
「コーチ、篠田さんって、あんな風に笑うんですね」
「そうだな」
「なんか、こっちまで嬉しくなります」
その選手の表情も、これまでより柔らかく見えた。
変化は、一人だけのものでは終わらない。
拓人は、その広がりを確かに感じ取っていた。
拓人の隣で、神崎が腕を組む。
「拓人、あれ、お前が何かしたのか」
「何もしてません」
「嘘つけ」
神崎は笑いながら、グラウンドを見つめていた。
「篠田が変わると、チーム全体の雰囲気が変わるな」
神崎はそう言うと、腕組みをほどいた。
「あいつ、入団した頃は、誰とも口を利かなかった」
「知ってます」
「フロントも、正直、扱いに困ってた」
「才能はあるが、チームに馴染まない。そういう評価だった」
神崎の言葉には、これまでの苦労がにじんでいる。
拓人は頷いた。
「あいつがずっと孤立してたんです」
「孤立?」
「家庭の事情、いろいろ抱えてて」
神崎はそれ以上聞かなかった。
「詳しくは聞かない。だが、よくやった」
その言葉に、拓人は小さく頭を下げた。
紅白戦が終わると、光は自分から輪の中心に入っていった。
これまでなら、真っ先にロッカールームへ消えていた光だ。
その日は最後まで残り、若手たちと談笑していた。
その輪の中に、木村もいる。
「篠田さん、今日のパス、完璧でしたよ」
「まぐれだ」
「またまた」
「篠田さん、そういえば、笑うんですね」
木村が茶化すように言った。
「うるさい」
「いや、いいことです。すごく」
木村の言葉に、光は少し目をそらす。
照れを隠すように、缶ジュースを一気に飲み干した。
軽口を叩き合う姿を、拓人はしばらく眺めていた。
チームというものが、少しずつ形になっていく瞬間だ。
個の力だけでは届かない場所がある。
観察して、待って、信じる。
その積み重ねが、こうして実を結び始めていた。
練習後、拓人は光に声をかけた。
「今日はよかったな」
「コーチのおかげです」
「俺は何もしてない」
「してますよ、たくさん」
光はそう言うと、荷物をまとめて帰り支度を始める。
「明日も、こんな感じでいけそうか」
「わかりません」
光は少し考えてから続けた。
「でも、今日みたいに、誰かのためにプレーするのって、悪くないですね」
その一言に、拓人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
育児で培ってきたものが、こうして選手の中に届いている。
その手応えは、これまでの人生で味わったことのないものだった。
その夜、拓人は佐藤に電話をかけた。
「兄貴、聞いてほしいことがあって」
「珍しいな、お前から電話なんて」
拓人は今日あったことを、かいつまんで話した。
佐藤はしばらく黙って聞く。
「拓人、それ、フェニックスでやってたことと同じだぞ」
「そうですね」
「育児も、指導も、結局は同じってことだな」
電話越しに聞こえる佐藤の声は、どこか誇らしげだった。
「蓮も、お前に育ててもらったようなもんだ」
「大げさですよ」
「大げさじゃない」
佐藤の言葉に、拓人は少し照れくさくなる。
電話を切ったあと、拓人はしばらくベランダで夜風にあたっていた。
川口で学んだことが、今、確かにここで生きている。
その事実が、静かな喜びとして胸に広がっていく。
光が帰った後、神崎が拓人のもとへ戻ってきた。
「拓人、来週の対戦相手、知ってるか」
「まだです」
「上位のグランパスだ」
拓人は表情を引き締める。
浦和は現在、中位に沈んでいる。
グランパスは、開幕から負けなしを続ける首位チームだった。
戦力差は、はっきりしている。
去年の対戦成績も、二戦二敗。
内容でも、大きく差をつけられていた。
「今の順位で当たるには、早すぎる相手ですね」
「だからこそ、だ」
神崎はグラウンドの照明を見上げた。
「今のチームの状態で、あそこに勝てたら、流れが変わる」
「勝てますか」
「わからん。だが、今日みたいなプレーが続けば、可能性はある」
神崎は少し間を置いてから続けた。
「お前が来るまで、正直、このチームには諦めムードがあった」
「そうだったんですか」
「勝てない、変わらない。誰もがそう思ってた」
「今日の練習を見て、初めて、期待できる気がした」
拓人は、その言葉を静かに受け止めた。
期待に応えられるかどうかは、まだわからない。
だが、応えたいと素直に思う。
拓人は少し考えてから聞いた。
「選手たちには、いつ伝えますか」
「明日の朝、正式に発表する」
「反応、荒れるかもしれませんね」
「かもな。だが、今のチームなら、受け止められる気がする」
神崎の言葉には、確かな手応えがにじんでいた。
拓人は、光が去っていったグラウンドの出口を見つめた。
光の背中は、これまでと違い、真っ直ぐ伸びている。
俯きがちだった歩き方も、今日は前を向いていた。
その姿を見送りながら、拓人は自分の中の何かも変わっているのを感じる。
誰かの変化に寄り添うことは、自分自身を見つめ直すことでもある。
そのことを、あらためて実感していた。
一人の選手の変化が、チーム全体をどこまで押し上げるのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
だが確かに、何かが動き始めていた。
グラウンドに残る照明の光が、二人の影を長く伸ばしている。
◆次回予告◆
グランパス戦を控え、チームの空気が張り詰めていく。
光の変化は本物なのか、それとも一過性のものなのか。
拓人が仕掛けた新たな采配が、初めて公式戦の舞台で試される。
浦和レッズの快進撃が、ここから静かに始まろうとしていた。
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