第66話 施設の話
「コーチ?」
光の声が、もう一度静かに響いた。
拓人は、まだ答えられずにいた。
夕方の風が缶コーヒーの湯気を揺らしている。
答えなくてもいい。
そう自分に言い聞かせようとした。
でも目の前の光は、たった今自分の全部を差し出してきたばかりだった。
黙ったままでいることが、急に卑怯なことのように思えた。
拓人は缶をベンチの足元に置いた。
「いなかった」
短くそう言った。
光が拓人を見た。
「いなかったって」
「両親がいない。物心つく前から」
光は息を止めたように動きを止めた。
「施設で育った」
拓人はそれだけ言うと、一度夜空を見上げた。
星はまだはっきりとは見えない時間だった。
「面会日ってあるんだ。月に一度」
「他の子の家族が来る日」
「俺のところには誰も来なかった」
職員が廊下の掲示板に面会予定を貼り出す。
その紙に自分の名前だけいつも空欄だった。
「最初は何かの間違いだと思ってた」
「そのうち間違いじゃないってわかった」
拓人は静かに続けた。
光は何も言わなかった。
ただじっと拓人の横顔を見ていた。
「最初の何回かは玄関で待ってた」
「誰か間違えて俺を呼んでくれないかって」
「そのうち待つのをやめた」
「待つと期待するから」
「期待すると痛いから」
小学校の授業参観も同じだった。
教壇から見える保護者席に自分の家族はいない。
先生が気を遣って話題を変えてくれることもあった。
その気遣いが逆に自分の異質さを際立たせた。
「お父さんの仕事はって作文の時間が一番嫌いだった」
「みんなが当たり前に書けることが書けなくて」
「適当に嘘書いてた」
「ばれないように」
光の目が少しずつ揺れ始めていた。
「誕生日もみんなでまとめて祝う。決まった日に」
「本当の誕生日は誰も気にしなかった」
「そういうものだと思うようにしてた」
拓人は淡々と言葉を並べていった。
感情を込めすぎないように意識していた。
込めれば崩れそうな気がした。
「職員さんは優しい人もいた」
「でも異動でいなくなる」
「仲良くなった頃にいなくなる」
「それを何度も繰り返した」
「谷口さんって人がいた」
「他の職員より少しだけ俺に構ってくれた」
「勉強教えてくれたり、球技大会見に来てくれたり」
「この人はいなくならないでほしいって初めて思った」
「二年で異動になった」
「最後の日、何も言えなくて」
「ただ頭を下げただけだった」
「それ以来決めたんだ」
「誰にも期待しない」
「期待しなければ失うものもない」
「そうやってずっと生きてきた」
拓人はそこで一度言葉を止めた。
夜風が木々を静かに揺らしていた。
「だからいつからか、あまり人と深く関わらないようにした」
「関わらなければいなくならないから」
光は小さく頷いた。
「サッカーはその頃から?」
拓人は静かに頷き返した。
「施設の裏に小さな空き地があった」
「そこで一人でボールを蹴ってた」
「壁に当てて返ってきたのをまた蹴る」
「それだけの遊びだった」
「誰かと話さなくて済んだから」
拓人は当時を思い出すように少し目を細めた。
「唯一うまくいくものだった」
「ボールは裏切らない」
「蹴った分だけ応えてくれる」
「だからずっと蹴ってた」
「上手くなれば誰か俺を見てくれるんじゃないかって」
「そう思ってた」
その言葉に光が小さく息を呑んだ。
「それ」
光の声が震えていた。
「俺と同じです」
拓人は頷いた。
「知ってる」
「お前を見た時、初日からわかった」
「誰とも目を合わせない癖」
「ロッカーの隅を選ぶ癖」
「全部昔の自分と同じだった」
光が拓人を見た。
「気づいてたんですか、最初から」
「気づいてた」
「でも言わなかった」
「言えばお前は余計に閉じるだけだったから」
「だから聞いたんだ。寂しくないかって」
光の目から一筋こぼれた。
拭おうともせず光はそのままでいた。
「ずっと誰にもわかってもらえないと思ってました」
「家のこと話しても、どうせ他人事だろうって」
拓人は静かに首を振った。
「他人事じゃない」
「お前だけじゃない」
その一言を拓人ははっきりと口にした。
自分自身に向けても言っているような気がした。
長年誰にも言わずにきた言葉だった。
施設を出てからというもの、誰にも打ち明けずにきた。
でも口に出してみると思ったより軽かった。
抱え続けていたことの方が実は重かったのかもしれない。
拓人はそのことに今初めて気づいた。
風が少しだけ止んだ。
公園はいつの間にかすっかり暗くなっていた。
街灯の光だけが二人をぼんやりと照らしていた。
「妻がいた」
拓人は続けた。
「高校の同級生だった」
「施設から学校に通ってた」
「それだけで色眼鏡で見られることもあった」
「誰とも深く話さないようにしてた」
「そんな時にあいつだけ普通に話しかけてきた」
「施設のことも家族のことも一切聞かずに」
「ただ隣に座っただけだった」
「俺の生い立ち、全部は話してない」
「でも少しだけ話した」
「それを一番最初に聞いてくれたのがあいつだった」
光は黙って聞いていた。
「先に逝った」
拓人はそれだけ言って口を閉じた。
それ以上はまだ話せそうになかった。
光もそれ以上は聞かなかった。
代わりに缶コーヒーを両手で強く握りしめた。
「ずっと自分だけがこうなんだと思ってました」
光がぽつりと口にする。
「みんな普通に家族がいて」
「普通に誕生日を祝ってもらって」
「俺だけ違うんだって」
「そう思うたびに自分がどこか欠けてる気がしてました」
拓人は静かに首を振った。
「欠けてない」
「ただ人より少し重いものを抱えてただけだ」
光はその言葉を噛み締めるように黙って聞いていた。
「コーチ」
しばらくして光が口を開いた。
「話してくれてありがとうございます」
拓人は少し笑った。
「お前が先に話してくれたからだ」
光は缶の中身を飲み干した。
空き缶をゆっくりと両手で潰した。
その仕草に何かを断ち切るような強さがあった。
「コーチ」
光が立ち上がった。
夜の中でその表情はこれまでとまるで違って見えた。
迷いが消えていた。
「明日、見ててください」
拓人は光を見上げた。
「何をだ」
光は答えなかった。
代わりに初めてまっすぐな目で拓人を見た。
「変わります、俺」
その声には迷いのかけらもなかった。
拓人はしばらくその顔を見つめていた。
これまで何度も見てきたあの反抗的な目とは違っていた。
そこにあったのは確かな光だった。
「待ってる」
拓人はそれだけ答えた。
光は小さく頷くと背を向けて歩き出した。
その足取りは来た時よりも明らかに軽かった。
公園の出口まで歩いたところで光が一度振り返った。
「コーチ」
「何だ」
「奥さんの話、いつかもっと聞かせてください」
拓人は少し驚いた顔をした。
それから小さく笑った。
「今度な」
光は頷くと今度こそ街灯の外へと歩き去っていった。
その背中が暗闇に少しずつ溶けていく。
拓人は一人になったベンチでしばらく夜空を見上げていた。
遥、聞いてたか。
そう心の中で呼びかけてみる。
答えは返ってこない。
でもなぜか返ってきたような気がした。
拓人は空き缶を手にゆっくりと立ち上がった。
エルザタワーへ帰る道すがらスマートフォンが一度震えた。
光からの短いメッセージだった。
「今日はありがとうございました。明日、絶対、見ててください」
その文面を拓人は何度も読み返した。
翌日の練習は、きっとこれまでと違うものになる。
◆次回予告◆
一夜明けたグラウンドに、これまでと違う光が立つ。
パスの受け方、声の出し方、チームメイトとの距離。
その全てが少しずつ変わり始めていた。
拓人が育んだ言葉が、初めてピッチの上で形になろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




