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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第65話 光の過去

光の一言が、拓人の中にまだ重く残っていた。


「話、聞いてもらえますか」


その声の震えが耳から離れなかった。


拓人は頷いた。


そしてグラウンドの外へ光を促した。


「歩きながらでいいか」


光は小さく頷いた。


二人は無言のまま住宅街を歩いた。


途中で練習を終えた選手たちとすれ違った。


木村が遠くから二人を見た。


何か言いたそうな顔をしていた。


でも何も言わず、そのまま通り過ぎていった。


空は少しずつ橙から紫へ変わり始めていた。


五分ほど歩くと小さな公園があった。


夕方の光がベンチの背もたれを橙色に染めている。


拓人が先に腰を下ろす。


光も少し距離を置いて隣に座った。


拓人は初日のことを思い出していた。


篠田光。


初めて会った日。


あいつは誰とも目を合わせなかった。


ロッカールームの隅で一人。


靴紐を結び直していた。


あれから何ヶ月が経っただろう。


無断欠席の四日間。


拓人はあえて連絡しなかった。


連絡すれば光はきっと追い詰められる。


そう感じていたからだ。


その判断が正しかったのかは、まだわからない。


でも今は隣に光がいる。


それだけで十分だと拓人は思った。


しばらくどちらも口を開かなかった。


風が乾いた音を立てて木の葉を揺らしている。


近くの街灯がぽつりと灯った。


「コーチ」


先に沈黙を破ったのは光だった。


「昔から、こうなんです」


「こうとは」


「誰かに聞かれるのが苦手で」


拓人は頷いた。


「聞かない。話したくなったら話せ」


光は少しだけ笑った。


「そう言われると逆に話したくなります」


また沈黙が流れた。


拓人は急かさなかった。


これまでの経験がそう教えていた。


言葉は待った分だけ深いところから出てくる。


葵の時もそうだった。


航太の時も同じだ。


待つことを教えてくれたのは佐藤だった。


「待て。急ぐと逃げる」


その声が今も耳の奥に残っている。


やがて光がぽつりと言った。


「母親。昔から金にだらしなくて」


拓人は黙って聞いた。


「小さい頃、電気がよく止まりました」


「水道も何度か」


「それが普通だと思ってました」


光は膝の上で手を組んだ。


「中学の時に初めて気づいたんです」


「友達の家は電気がいつもついてるって」


「宿題を携帯の光でやってた夜もあって」


「それが変なことだって知りませんでした」


拓人は何も言わなかった。


「それから誰にも言わなくなりました」


「言えばどうなる」


「同情されるか笑われるか。どっちかです」


光の声が少し震えた。


「小学生の頃。スパイクがボロボロで」


「親指のところが破れてて」


「みんなに見られたくなくていつも隠してました」


「試合の前にこっそりテープを巻いてました」


「一度、それをチームメイトに見られて」


「お前んち貧乏なのって笑われました」


「何でもないふりして笑い返しました」


「でも、その日の夜に初めて母親に怒鳴りました」


「なんで、うちだけこうなんだよって」


「母親は黙って俺を見てただけでした」


「それが余計に悔しくて」


拓人は、その言葉を静かに受け止めた。


チームの子供たちにも似た子はいた。


蓮も翔太も、それぞれの事情を抱えていた。


見えない場所には必ず何かがある。


拓人は、それを育児で学んでいた。


グラウンドの上では誰もが同じユニフォームを着ている。


でも、その下には違う日常が隠れている。


風が少し強くなった。


光はコートの襟を無意識に立てた。


「一番覚えてるのは」


光がゆっくり続けた。


「プロのスカウトが初めて家に来た日です」


「母親は玄関先で契約金の話しかしてなくて」


「俺のプレーを一度も見に来たことないのに」


「金の話になった途端に機嫌が良くなって」


「その日の夜。珍しく外食に連れて行かれました」


「嬉しいはずなのに何か変な感じがして」


「ああ。これは俺じゃなくて金の話なんだって」


拓人は黙って聞いていた。


「その日。初めて自分がサッカーで稼げるって実感しました」


「同時に母親にとって俺が何なのかわかった気がして」


光は少し笑った。


自嘲するような乾いた笑いだった。


「プロになってからも電話がかかってきました」


光はスマートフォンを少し握りしめた。


「元気? お母さん、ちょっと大変で」


「いつも、そこから始まります」


「用件は最後にさらっと」


「少しだけ貸してくれない?」


「断れなくて何度も振り込みました」


「振り込んだ後は決まって既読すらつかなくなります」


「サッカーだけが逃げ場でした」


光が続けた。


「ピッチの上でだけ誰も俺の家のことを知らなかった」


「だから上手くなりたかった」


「上手くなれば誰も気にしなくなる」


「そう思ってました」


一度だけ違ったことがあった。


中学の顧問だった初老の先生だ。


「篠田。飯、食ってるか」


その一言だけを練習後にいつも聞いてくれた。


答えなくても何も追及しなかった。


ただ時々、菓子パンを黙って渡された。


「あの先生だけ俺の家のことを何となくわかってたと思います」


「何も聞かずにパンだけくれるんです」


「今思えばあれが初めてでした」


「誰かにちゃんと見てもらえてる感じがしたの」


拓人は、その話を静かに聞いていた。


見返りを求めない優しさがある。


それが時に一番深く残る。


拓人自身も、そういう記憶をいくつか持っていた。


「昔のコーチに才能を無駄にするなってよく言われました」


「でも、その人は俺の家のことを何も知らなくて」


「才能の話ばかりで俺自身の話は一度も聞かれませんでした」


「だからコーチに聞かれた時、驚きました」


「寂しくないかって」


「あんなこと聞かれたの初めてでした」


拓人は少し考えてから聞いた。


「今もそう思うか」


光は首を横に振った。


「わからなくなりました」


「レッズに入って金の心配がなくなったのに」


「母親からまた連絡が来るようになって」


「金、送れって。それだけです」


拓人は光の横顔を見た。


「断ったのか」


「一度、断りました」


「そしたらしばらく連絡がなくて」


「ほっとした自分がいました」


光は俯いた。


「最低ですよね」


「親なのに」


拓人はゆっくり首を振った。


「最低じゃない」


「お前はただ疲れてただけだ」


光は驚いたように拓人を見た。


「疲れてるなんて」


「言われたことないです」


「みんな頑張れとしか言わない」


拓人は少し笑った。


「頑張れはもう十分だろう」


光の目に光るものが浮かんだ。


拓人はそれ以上何も言わなかった。


ただ隣に座っていた。


それだけで十分な時もある。


しばらくして拓人は立ち上がった。


「飲み物、買ってくる」


近くの自販機で缶コーヒーを二本買った。


一本を光に渡す。


「甘いの平気か」


「平気です」


光は両手で缶を包むように持った。


温かさがじわりと伝わってくる。


その温もりが少しだけ光の肩の力を抜いたように見えた。


沈黙がさっきまでとは違うものになっていた。


重さではない。


少しだけ軽さに近い沈黙だった。


光が缶を両手で回しながらぽつりと言った。


「コーチってどうしてこんなに待てるんですか」


拓人は少し考えた。


「昔、誰かに待ってもらったからだ」


「誰かに?」


「今度、話す」


光はそれ以上聞かなかった。


その代わり少しだけ笑った。


「コーチ、意外と秘密主義ですね」


「お前ほどじゃない」


「そうですか?」


二人の間に初めて軽い空気が流れた。


しばらくして光が小さく聞いた。


「コーチには家族、いたんですか」


拓人は言葉に詰まった。


答えようとして口を開きかける。


でも閉じた。


缶コーヒーの温かさだけが掌に残っていた。


光は不思議そうに拓人を見ている。


「コーチ?」


拓人はまだ何も答えられずにいた。


夕方の風がまた吹いた。


拓人の中で遠い記憶が静かに揺れ始めていた。


施設の廊下。


誰も迎えに来ない夕方の匂い。


自分の名前を誰も特別な声で呼ばなかった日々。


職員の足音。


規則正しく並んだベッド。


誕生日でさえ他の子とまとめて祝われた記憶。


拓人はそれらを長い間、誰にも見せずにきた。


見せる必要がないと思っていた。


でも今は違う。


目の前で光が自分の弱さを差し出している。


その事実が拓人の中の何かを静かに揺さぶっていた。


「コーチ。答えたくないならいいです」


光がそう言った。


その声には拓人を気遣う静かな優しさがあった。


その優しさが逆に拓人の胸を締め付けた。


その瞬間。


拓人は初めて気づいた。


自分が光にだけはまだ何も話していない。


これまで誰にも話してこなかったことを。


街灯の下で二人の影が長く伸びていた。


◆次回予告◆


「コーチには、家族、いたんですか」


その一言が拓人の記憶の扉を静かに開いていく。


光にだけは話せなかった施設で育った日々。


次話。


拓人が初めて自分の過去を語り始める。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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