第63話 チームの亀裂
神崎に連れられて拓人はミーティングルームに入った。
扉を閉めると神崎は深いため息をついた。
「昨日の練習後、光が他の選手と揉めた」
「揉めた、というのは」
「殴り合いには、ならなかった。でも、あわや、というところまでいった」
拓人は椅子に座り続きを待った。
神崎は疲れた表情のまま状況を説明した。
紅白戦の後、光が味方選手のミスを大声で罵倒した。「お前のせいで負けた」と、チームメイトの前で、はっきりと言い放った。
罵倒された選手も黙っていなかった。言い返し、周りが止めに入る騒ぎになった。
「あの、パスを選ぶようになったっていう話は」
拓人が聞くと神崎は首を振った。
「ここ数日、また元に戻ってる。むしろ、前より酷い」
拓人は言葉を失った。
先日見た、あの一つのパス。あの小さな一歩。
あれは何だったのだろうか。
「拓人、正直に言う」
神崎の声が少し低くなった。
「俺は、もう、あいつのこと、わからない」
その一言に拓人は驚いた。
「わからない、というのは」
「これまで、何人ものコーチが、あいつを変えようとしてきた。でも、変わらなかった。お前が来てから、少し希望を持ってた。でも」
神崎は言葉を切り拓人を見た。
「今回のことで、正直、匙を投げたくなってる」
拓人はしばらく黙っていた。
これまで拓人自身も光に対して手応えを掴みかけていると感じていた。あの朝の会話。母親の話。パスを選んだ、あの瞬間。
でも、それは拓人の勝手な思い込みだったのかもしれない。
「光は今、どこに」
拓人が聞くと神崎は少し困った顔をした。
「今日は練習に来てない。連絡もつかない」
拓人はその事実を、重く受け止めた。
ミーティングルームを出ると拓人はグラウンドに向かった。
選手たちが練習の準備をしていた。でも、その空気はこれまでとは明らかに違っていた。
昨日光と揉めた選手が少し離れた場所で他の選手と話している。時折光の名前が聞こえてきた。
「あいつ、いつもああだよな」
「せっかく変わったと思ったのに」
「結局、あれも演技だったんじゃないか」
拓人はその言葉を黙って聞いていた。
演技。
その言葉に拓人は引っかかりを覚えた。
光は演技をするような人間には拓人には見えなかった。
でも、その確信を拓人はうまく言葉にできなかった。
練習が始まった。
拓人は選手たちの動きをいつも通り観察しようとした。でも、集中しきれなかった。
頭の中にはずっと光のことがあった。
練習の合間、拓人は昨日揉めた選手に声をかけた。
「大丈夫か」
選手は少し驚いた顔をした。
「あ、はい。大丈夫です」
「光と何があったか、話してくれるか」
選手は少し迷った様子を見せたが話し始めた。
「俺が、パスミスしたんです。それは俺が悪かった。でも、あそこまで、みんなの前で、言われる筋合いはないと思って」
「言い返したのか」
「はい。それで、ヒートアップして」
拓人は頷いた。
「篠田は、いつも、あんな感じなのか」
「基本、そうです。自分のミスは、絶対に認めないし、人のミスは、徹底的に責めます」
拓人はその言葉を、頭の隅に、留めた。
自分のミスは認めない。
認めることが怖いのかもしれない。認めた瞬間、自分の価値が崩れてしまうと思っているのかもしれない。
でも、それはまだ拓人の推測に過ぎなかった。
練習が終わった後、拓人はもう一度神崎のところへ向かった。
「神崎さん」
「なんだ」
「光との時間、もう少し、俺にください」
神崎は少し拓人を見た。
「まだ諦めてないのか」
「はい」
「なんでだ。今回の件、お前の面子も潰されたようなものだぞ」
拓人は少し考えてから答えた。
「面子は、どうでもいいです」
「じゃあ、何のためだ」
拓人は間を置いてから言った。
「光の中に、まだ掴めてないものがあります。それを、放り出したくないんです」
神崎はしばらく拓人の顔を見つめていた。
「お前、変わってるな」
「そうですか」
「普通、これだけ面倒起こす選手、見放すもんだ」
拓人は少し笑った。
「俺も、昔、面倒な人間でした」
神崎は少し驚いた顔をしたが、それ以上深くは聞かなかった。
「わかった。もう少し時間をやる。でも、フロントも黙ってないぞ」
「わかってます」
神崎はため息をついて去っていった。
拓人は一人グラウンドに残った。
夕暮れの光が芝生を赤く染めていた。
拓人はこれまでの光との時間を、頭の中で、もう一度整理した。
早朝のグラウンド。ボールを蹴り続ける背中。母親の話。「葵みたいだな」という言葉。パスを選んだ、あの瞬間。
一つ一つに意味はあったはずだ。それでも今、光は、目の前からいなくなっている。
拓人はこれまでの遠回しなアプローチの限界を感じ始めていた。
行動で示す。待つ。
その姿勢は間違っていなかったはずだ。
でも、光の中にある問題は、もっと根深いところにあるのかもしれない。
拓人は車に向かいながら一つの決意を固めた。
これまでのように遠くから見守るだけでは足りない。
もっと直接、光の内側に踏み込む必要がある。
でも、どうやって。
拓人にはまだその方法が見えていなかった。
家に向かう車の中で拓人はスマホを取り出した。
光にメッセージを送るべきか迷った。
でも、何を送ればいいのか言葉が見つからなかった。
拓人はスマホをそのままシートに置いた。
家に着くと航太が玄関で待っていた。
「パパ、今日、なんか、疲れてる?」
拓人は少し無理に笑った。
「ちょっとな」
「あの選手のこと?」
拓人は驚いて航太を見た。
「なんでわかる」
「顔に書いてある」
拓人は苦笑した。
「そんなに、わかりやすいか」
「わかりやすい」
航太は少し心配そうな顔をした。
「大丈夫?」
拓人は少し考えてから答えた。
「わからない。でも、諦めるつもりはない」
航太はその言葉に頷いた。
その夜、拓人はなかなか眠れなかった。
光の顔。神崎の言葉。「もう、あいつのこと、俺には、わからない」。
拓人は暗い天井を見つめながら思った。
このままでは光はいつかチームを追われる。
その前に拓人にはまだできることがあるはずだった。
翌朝、拓人はいつもより、さらに早く家を出た。
グラウンドに向かう車の中で拓人は心に決めていた。
今日、光が練習に来たら、これまでとは違う形で向き合う。
遠くから見守るのではなく、直接、正面から。
でも、その日、光は練習に姿を現さなかった。
翌日も。
その翌日も。
光は三日間、連続で無断欠席を続けていた。
◆次回予告◆
光の不在が続く中、拓人は、これまでの向き合い方そのものを見直し始める。
観察するだけでは、届かない領域がある。
拓人が次に選んだのは、選手一人ひとりと、飯を共にするという、地道な方法だった。
光にも、いつか、同じ席に着いてもらう。
そのために、拓人はまず、チーム全体との距離を、縮めることから始める。
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