第62話 航太の本音
面談の日、拓人は練習を少し早めに切り上げて学校へ向かった。
これまでこういった場に拓人自身が直接足を運ぶことは、ほとんどなかった。
校門をくぐると、懐かしさと少しの緊張が同時に湧いてきた。
拓人は案内された面談用の小さな部屋に入った。
担任の教師が、すでに待っていた。四十代くらいの落ち着いた雰囲気の女性だった。
「糸井さん、お忙しい中、ありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
拓人は椅子に腰を下ろした。
「航太くん、最近、学校では、どんな様子でしょうか」
拓人が聞くと、担任は少し微笑んだ。
「とても落ち着いています。授業態度も真面目ですし、友人関係も良好です」
「そうですか」
拓人は少し安堵した。
担任は手元の資料をめくりながら続けた。
「実は少し前、道徳の授業で『家族について』という作文を書いてもらったんです」
拓人は少し身を乗り出した。
「航太くん、とても丁寧な文章を書いていました」
担任はそのページを拓人の方に少し向けた。
「読んでもいいですか」
「もちろんです」
拓人はその紙面に目を落とした。
そこには航太の少し丁寧な字で、こう書かれていた。
「僕の父は昔サッカー選手でした。今はコーチをしています。以前はあまり話す機会がありませんでした。でも今は少しずつ話せるようになってきました。それは父が僕の話を急かさずに待ってくれるようになったからだと思います」
拓人はその文字をしばらく見つめた。
胸の奥がじわりと熱くなった。
担任が続けた。
「この作文、クラスの中でも特に印象に残った子が多くて。何人かの生徒が感想を発表してくれたんです」
「そうなんですか」
「はい。航太くんが書いた内容を聞いて、自分も親と、もっと話してみようと思った、という子もいました」
拓人は目の前の文字を、もう一度読み返した。
急かさずに待ってくれるようになった。
その一文が拓人の中に深く刻み込まれた。
これまで拓人は航太との関係を修復しようと必死だった。荒川の朝の散歩。夜の散歩。言葉を無理に探さない時間。
その一つ一つが、こんな形で航太の中に残っていた。
「糸井さん」
担任が少し声をかけてきた。
「大丈夫ですか」
拓人は我に返って頷いた。
「はい、すみません。少し感慨深くて」
担任は優しく微笑んだ。
「素敵な親子関係だと思います」
面談はその後、学業や友人関係について、いくつか話が続いた。
拓人はその内容を丁寧に聞きながら、頭の中ではまださっきの作文の言葉が繰り返されていた。
学校を出ると、夕方の空が少しずつ色を変え始めていた。
拓人は車に、すぐには乗らなかった。
校門の前にしばらく立ち止まった。
空を見上げた。
オレンジ色から少しずつ紫に変わっていく空。
その色の移り変わりを拓人はじっと見つめていた。
葬儀の翌朝、オムツも替えられなかった日。
正論をぶつけて失敗し続けた、あの頃。
佐藤に教わった「待つ」という言葉。
荒川の土手で初めて航太が自分から隣を歩いてくれた日。
拓人はしばらくその場に立ち続けた。
やがて車に乗り込み、家へと向かった。
家に着くと航太がリビングでテレビを見ていた。
「パパ、おかえり。面談どうだった」
拓人は少し迷ってから答えた。
「作文、見せてもらった」
航太は一瞬固まった。
顔が少し赤くなった。
「え、あれ見せられたの」
「ああ」
「うわ、恥ずかしい」
航太は両手で顔を覆った。
拓人はその様子を見て少し笑った。
「恥ずかしがることじゃない。良い文章だった」
航太は指の間から少しだけ拓人を見た。
「別に、大したこと書いてないし」
「大したことだ」
拓人は航太の隣に座った。
「ありがとうな」
「なんでお礼」
「お前が、あんなふうに思ってくれてたの、知らなかった」
航太は少し視線を逸らした。
「言葉にすると恥ずかしいから、言わなかっただけ」
拓人はその言葉に深く頷いた。
「これからも無理に言葉にしなくていい」
「うん」
「でも、たまには聞かせてくれ」
航太は少し笑った。
「気が向いたらね」
その夜、拓人は寝室でベッドに入りながら今日一日を振り返った。
面談でのあの言葉。航太の照れた顔。
家庭の中に確かな温かさがあった。
翌朝、練習場に着いた拓人を待っていたのは、まったく違う空気だった。
グラウンドに入ると選手たちの表情がいつもと違っていた。
何人かが輪になって小声で何かを話している。
その輪の中心には光の姿があった。
昨日までのあの小さな変化が嘘だったかのように、光は不機嫌そうな顔で一人、離れた場所に立っていた。
拓人はその空気の変わりように、思わず足を止めた。
神崎が少し疲れた表情で拓人に近づいてきた。
「拓人、ちょっと話がある」
その声には、これまでにない重さがあった。
◆次回予告◆
昨日までの、光の変化はどこへ消えたのか。
チームの中に静かに亀裂が走り始めていた。
神崎が拓人に告げる。
「正直、もう、あいつのこと、俺にはわからない」
その一言が、拓人の指導者としての新たな試練の始まりだった。
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