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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第3章:指導者への道

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第60話 葵みたいだな

「コーチ」


光の声には、これまでとは違う響きがあった。


拓人は、手を止めて、光を見た。


光は、少し落ち着かない様子で、視線をあちこちに動かしていた。


「昨日の、あれ」


「あれ、というのは」


「監視じゃない、見てるだけっていう、あれです」


拓人は、少し意外に思いながら、頷いた。


「ああ」


光は、少し間を置いてから、続けた。


「別に、信じたわけじゃないですけど」


「わかってる」


「でも」


光は、そこで言葉を詰まらせた。


拓人は、急かさずに待った。


これまで、育児の中で何度も経験してきたことだった。


子供が何かを言おうとして、言葉に詰まる時。


急かせば、閉じてしまう。


沈黙が、しばらく続いた。


「昨日、ずっと、車の中から見てましたよね」


拓人は、少し驚いた。


「気づいてたのか」


「気づきますよ。それくらい」


光は、少し拗ねたような顔をした。


「なんで、声かけてこなかったんですか」


拓人は、少し考えてから答えた。


「かけようか迷った。でも、お前が一人になりたいんだと思って、やめた」


光は、その言葉に、少し驚いた表情を見せた。


「そうやって、何も聞かないの、逆に気持ち悪いです」


拓人は、少し苦笑した。


「そうか」


「普通、聞くでしょ。何、見てたんですかとか」


拓人は、少し間を置いてから答えた。


「聞いてほしいなら、聞く」


光は、しばらく黙っていた。


それから、少し視線を落として言った。


「母親から、連絡が来てたんです」


拓人は、静かに続きを待った。


「久しぶりに」


光の声は、少し小さくなっていた。


「昔、俺が天才、天才って持ち上げられてた頃」


「あの人、俺のこと、お金づるみたいに見てました」


拓人は、何も言わなかった。


「今さら連絡してきて、金の相談です」


「お前、稼いでるんだろって」


光は、少し自嘲するように笑った。


「くだらないでしょ」


拓人は、少し考えてから答えた。


「くだらなくはない」


「え」


「お前にとって、大事な問題だ」


「だから、あんなふうに一人で座ってた」


光は、その言葉に何も返せなかった。


拓人は、続けた。


「親との関係は、簡単には割り切れない」


「それは、俺も少しわかる」


光は、少し疑うような目で拓人を見た。


「コーチにも、そういうの、あるんですか」


拓人は、少し迷った。


自分の生い立ちを、まだ光に話す段階ではないと感じた。


「詳しくは、いつか話す」


「今じゃないんですか」


「今じゃない」


光は、少し不満そうな顔をした。


でも、それ以上は追及しなかった。


しばらく、二人とも黙って朝の練習場に立っていた。


風が、グラウンドの芝を揺らしていた。


「コーチ」


光が、また口を開いた。


「なんで、こんな朝早くから、グラウンド整備してるんですか」


拓人は、少し笑った。


「誰かがやらないと、始まらないだろ」


「スタッフの仕事でしょ」


「今は、俺がやりたいんだ」


光は、少し考えるような顔をした。


「意味、わかんないです」


「わからなくていい」


拓人は、ラインカーをまた押し始めた。


光は、しばらく、その様子を見ていた。


それから、少しぽつりと言った。


「俺、今日、パス、意識してみます」


拓人は、手を止めた。


驚いて、光を見た。


「なんで、急に」


光は、少し目をそらした。


「別に。理由、ないです」


理由がないと言いながら、光は確かに、何かを変えようとしていた。


拓人は、少し考えてから言った。


「お前、葵みたいだな」


光は、意味がわからないという顔で、拓人を見た。


「葵?」


「俺の娘だ」


「はあ」


「あいつも、素直に気持ちを言えない時、遠回しに行動で示す」


「今のお前と、似てる」


光は、少し戸惑ったように、拓人を見つめた。


「意味、わかんないです」


「わからなくていい。ただ、そう思っただけだ」


光は、しばらく、その言葉を考えているようだった。


それから何も言わずに、練習の準備へ戻っていった。


拓人は、その背中を見送った。


すぐに劇的な変化があるとは、思っていなかった。


でも、光が今日、初めて自分から何かを口にした。


その事実だけで、拓人にとっては大きな一歩だった。


その日の練習。


拓人は、光の動きを、いつも以上に注意深く見つめていた。


紅白戦で、光がボールを持った。


いつもなら、迷わず自分でシュートまで持ち込む場面だった。


光は、一瞬、視線を周りに走らせた。


フリーになっている味方がいた。


光は、少し迷うような素振りを見せた。


それから、パスを出した。


小さな、一つのパスだった。


味方が、それを受けて、シュートを打った。


ゴールには、ならなかった。


でも、拓人は、思わず拳を握った。


その一つのパスに、光のこれまでとは違う意志が見えた。


練習が終わった後、拓人は、光に近づいた。


「今の、良かった」


光は、少し照れくさそうな顔をした。


「別に、大したことじゃないです」


「大したことだ」


拓人は、光の肩に軽く手を置いた。


光は、その手を振り払わなかった。


「明日も、同じこと、続けてみろ」


「約束は、しません」


拓人は、少し笑った。


「それでいい」


光は、少し複雑な表情を浮かべながら、ロッカールームへ戻っていった。


拓人は、グラウンドに一人残った。


夕日が、芝生を橙色に染めていた。


一つのパス。


一言の会話。


まだ、始まりに過ぎない。


家に向かう車の中で、拓人は、今日の出来事を思い返した。


光の母親についての話。


パスを選んだ、あの一瞬。


明日、光がまた同じように、ボールを独占するかもしれない。


それでも、拓人は、今日という日を、確かな一歩として心に刻んだ。


家に着くと、拓人は子供たちに、今日の出来事を少しだけ話した。


「あの選手、少し変わったかもしれない」


航太が、目を輝かせた。


「本当に?」


「少しだけ、だけどな」


拓人は、そう言いながら、まだ油断はできないと、自分に言い聞かせていた。


光の抱えている問題は、拓人が想像していたよりも深く、根を張っている。


母親からの連絡。


金の無心。


その一件だけで、光の心を、すべて理解できたわけではない。


拓人は、まだ光の過去の、ほんの入り口に立ったに過ぎなかった。


そして、コーチとしての一日と、父親としての一日。


これから、その二つをどう両立させていくか。


その現実的な課題が、拓人の前に静かに待ち構えていた。


◆次回予告◆


翌週から、拓人の日常は、これまで以上に慌ただしくなっていく。


コーチとしての練習。


子供たちの送り迎え。


弁当作り。


節子と佐藤に支えられながら、拓人は新しい生活のリズムを探り始める。


その両立の先に、拓人は、何を見出すのか。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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