第59話 篠田光
光が一人で早く来るようになってから、数日が経っていた。
毎朝、拓人がグラウンドを整備していると、光が少し遅れて姿を現す。
会話は、ほとんどない。
「早いな」
「別に」
そんなやり取りが、日課のように繰り返されていた。
拓人は、その距離を無理に縮めようとはしなかった。
光がなぜ早く来るようになったのか。
その理由を、拓人はまだ知らない。
でも、無理に聞き出す必要はないと思っていた。
ある朝、拓人がいつものようにゴールネットを確認していると、光が少し離れた場所にいた。
一人でボールを蹴っている。
リフティングでもない。
ドリブル練習でもない。
ただ、壁に向かってボールを蹴り続けていた。
同じ動作の繰り返しだった。
拓人は、その様子をしばらく見つめた。
技術的には、意味のない単調な作業だ。
苛立ちなのか。
不安なのか。
あるいは、その両方なのか。
拓人には、まだ判断がつかなかった。
「毎日、そうやって蹴ってるのか」
声をかけると、光が少し驚いた。
蹴る動作を止める。
「別に、いいでしょ」
「悪いとは言ってない」
光が、拓人を睨むように見た。
「コーチも、俺のこと監視してるんですか」
拓人は少し考えてから答えた。
「監視じゃない。ただ、見てる」
「同じことでしょ」
「違う」
拓人は、はっきりと言った。
「監視は粗探しだ。俺は、お前が何をできるか見てるだけだ」
光は戸惑ったような顔をした。
でも、すぐに顔を背けた。
「別に、コーチに見てもらう必要ないです」
そう言って、光はボールを拾った。
そのままロッカールームへ歩いていく。
拓人は、その背中を見送った。
拒絶されたことに、驚きはなかった。
これまでの練習を見てきた。
光が誰かに心を開く姿を、拓人は一度も見ていない。
紅白戦の休憩中。
拓人は、他の選手たちにそれとなく聞いてみた。
「光と話すことはあるか」
若手選手の一人が、言いにくそうに答えた。
「あんまりないです。話しかけても、そっけないんで」
「チームの中で孤立してるのか」
「孤立っていうか……」
選手は少し考えてから続けた。
「あいつが自分から壁を作ってる感じです」
「壁を?」
「実力あるから、周りも無理に近づかないっていうか」
拓人は、その言葉を心の隅に置いた。
自分から壁を作っている。
練習後、拓人は神崎に、もう一度聞いた。
「光は、寮生活ですか」
「いや。一人暮らしだ。実家は地方だから」
「家族との連絡は?」
神崎は、少し考える素振りを見せた。
「わからない。あいつ、プライベートの話を一切しないから」
拓人は、その答えに引っかかった。
家族の話を、一切しない。
拓人自身も、かつてはそうだった。
施設育ちであることを、誰にも話したくなかった時期がある。
話せば、余計な同情を向けられる気がしたからだ。
光の沈黙にも、同じ理由があるのだろうか。
それとも、まったく別の事情なのか。
拓人には、まだ確信が持てなかった。
その日の夕方。
拓人は練習を終え、駐車場へ向かった。
車に乗り込む前、練習場の隅に光の姿を見つけた。
一人でベンチに座っている。
スマホを見ていた。
拓人は少し迷った。
近づくべきか。
それとも、今日はこれ以上踏み込まないべきか。
結局、拓人は近づかなかった。
その代わり、車の中からしばらく様子を見ていた。
光はスマホの画面をじっと見つめている。
動かない。
何を見ているのか、拓人にはわからなかった。
でも、その背中の丸め方は、これまでの傲慢な態度からは想像できないものだった。
拓人はエンジンをかけた。
家に向かう車の中で、今日の出来事を整理する。
光の単調なボール蹴り。
拒絶の言葉。
他の選手たちの証言。
神崎から聞いた家族の話。
一つ一つの断片は、まだ形になっていない。
でも、拓人には一つだけ確信があった。
光の孤立は、想像していたより深い。
もっと根の部分にある。
家に着くと、航太が玄関で待っていた。
「パパ、あの選手どうなった?」
拓人は少し考えてから答えた。
「まだ、話もできてない」
航太は意外そうな顔をした。
「難しいんだね」
「難しい」
拓人は正直に頷いた。
「でも、時間をかければ大丈夫だと思ってる」
航太は少し微笑んだ。
「パパがそう言うなら、そうなんだろうね」
拓人は、その言葉に少し肩の力が抜けた。
その夜。
拓人は寝る前に、もう一度、光の表情を思い出した。
ベンチで一人、スマホを見つめていた姿。
拓人は、その正体をまだ掴めずにいた。
翌朝。
拓人がいつものようにグラウンドで作業をしていると、光が姿を現した。
いつもより、さらに早い。
そして、これまでとは明らかに違う表情をしていた。
光は、拓人の前まで歩いてきた。
◆次回予告◆
光が、拓人の前に立った。
「コーチ」
その声には、これまでと違う響きがあった。
拓人が光を見つめ返す。
その瞬間。
光の口から、思いがけない言葉がこぼれ出す。
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