第58話 30分早く
翌朝、拓人はまだ暗いうちに家を出た。
練習開始の一時間前だった。
選手時代にも早めに来ることはあった。
でも、これほど早く練習場へ向かうのは初めてだった。
車を走らせながら、拓人は昨夜決めたことを思い返した。
言葉で選手たちを変えようとしない。
まずは行動で示す。
その考えの根っこには、航太との日々があった。
正論をぶつけ続けて、心を閉ざされたあの頃。
そこから待つことを覚えた。
少しずつ関係を築き直してきた。
同じことが、この職場でもできるはずだった。
練習場に着くと、まだ誰もいなかった。
拓人は車を降りてグラウンドへ向かった。
朝の空気が冷たい。
芝生には、まだ朝露が残っていた。
拓人は倉庫から道具を取り出した。
ラインカー。
コーン。
ゴールネットの補修用の紐。
これまで、こうした作業は専門のスタッフが担当していた。
選手時代の拓人は、一度も自分で整備したことがない。
でも、コーチとしては違う。
拓人はラインカーを押した。
グラウンドに白い線を引いていく。
まっすぐ引くのは、意外と難しかった。
少し蛇行してしまう場所もある。
それでも、拓人は丁寧に作業を続けた。
コーンを決められた位置に並べる。
ゴールネットの緩んだ部分を確認する。
そして、結び直す。
一つ一つの作業が新鮮だった。
これまで拓人は、整えられたグラウンドでプレーしてきた。
その裏側には、誰かの地道な作業がある。
それを改めて実感した。
作業をしながら、拓人はフェニックスの日々を思い出した。
荒川沿いの河川敷グラウンド。
専属スタッフなどいない場所だった。
拓人は佐藤や保護者たちと一緒にコーンを並べた。
ラインも引いた。
プロの世界に戻っても、同じことを続ける。
その巡り合わせに、拓人は思わず笑いそうになった。
作業を終える頃だった。
少しずつ選手たちが集まり始めた。
木漏れ日の中へ、若手選手の一人が入ってくる。
拓人の姿を見て、少し驚いた顔をした。
「コーチ、もう来てたんですか」
拓人は手を止めずに答えた。
「ああ。少し早めに」
「グラウンド整備って、いつもスタッフさんがやるのに」
「今日は俺がやっといた」
選手は戸惑った顔を残してロッカールームへ向かった。
拓人は、その背中を見送った。
言葉はそれだけだった。
でも、それで十分だと思っていた。
翌日も、拓人は同じ時間に来た。
その翌日も。
一週間が経つ頃には、拓人が練習前に一人で整備する姿も見慣れた光景になっていた。
でも、拓人と選手たちの間には距離があった。
挨拶は交わす。
それ以上の会話は、ほとんどない。
光に至っては、拓人と目を合わせることすらなかった。
紅白戦や練習メニューの中で、拓人は光を観察し続けた。
技術は間違いなく突出している。
でも、チームとしての機能を光は拒んでいるように見えた。
ある日の練習後だった。
拓人は神崎に、光について聞いてみた。
「光は、これまでどんな環境で育ったんですか」
神崎は少し考えてから答えた。
「中学の頃から天才って呼ばれてた。ユース年代でも圧倒的な結果を出し続けてきた」
「それは」
「本人にとっては、良いことばかりじゃなかったと思う」
神崎は少し声を落とした。
「周りが、あいつを特別扱いし続けた。褒める人間ばかりで、正面から向き合う人間がいなかったのかもしれない」
拓人は、その言葉を胸の中で転がした。
正面から向き合う人間がいなかった。
施設で育った頃の自分を、拓人は光に重ねずにはいられなかった。
サッカーの才能だけが、拓人を特別な存在にしていた時期。
その特別さは、拓人にとって幸せなものではなかった。
孤独だった。
誰も、拓人の内側を見ようとしなかった。
翌朝も、拓人はいつも通り早く来た。
その日、拓人がラインを引いていると、後ろから足音が聞こえた。
振り返る。
光が立っていた。
まだ、練習開始の四十分前だった。
これまで光が、こんなに早く来ることは一度もなかった。
拓人は少し驚いた。
でも、それを顔には出さない。
「早いな」
声をかけると、光は面倒くさそうな顔をした。
「別に。眠れなかっただけです」
「そうか」
拓人は、それ以上聞かなかった。
光は少し離れた場所に荷物を置いた。
そして、一人でストレッチを始めた。
拓人はラインカーを押しながら、その様子を視界の端で捉えていた。
言葉は、それ以上交わさなかった。
これまで他の選手と同じように遅れて来ていた光。
その光が、今日は一人だけ早く来た。
理由は、まだわからない。
でも、拓人はその小さな変化を見逃さなかった。
作業を続けながら、心の中で思う。
急がず、待つ。
その姿勢を、これからも崩さない。
グラウンドに朝の光が差し込んできた。
光は一人で、黙々とストレッチを続けている。
拓人は、その背中を見つめた。
そして、次の一手を静かに考え始めた。
◆次回予告◆
その日の練習中。
拓人は、光に一つの言葉を投げかける。
「お前、葵みたいだな」
意味がわからない。
そんな顔をする光。
その一言が、二人の関係を少しずつ変えていくことになる。
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