第44話 観察眼、ふたたび
練習初日、拓人はグラウンドに、いつもより早く到着した。
まだ誰もいない河川敷に、朝日が差し込んでいた。
拓人は、一人でグラウンドを歩きながら、頭の中で今日のメニューを組み立てていた。
一週間しかない。基礎から教える時間はない。今、この子たちが持っているものを、最大限引き出す。
それが、拓人が佐藤に約束したことだった。
正直に言えば、少年サッカーの指導に、確たる自信があったわけではなかった。
プロの選手を率いる方法なら、いくらでも知っていた。戦術理論、フィジカルトレーニング、メンタルマネジメント。UEFA Proライセンスを取得する過程で、あらゆる知識を叩き込んできた。
目の前にいるのは、小学生だった。
プロの理論が、そのまま通用するとは思えなかった。
子供たちが、続々とグラウンドに集まってきた。
「おはようございます」
蓮が、真っ先に駆け寄ってきた。
「おはよう」
「今日から、糸井さんが監督ですね」
「監督じゃない。あくまで、代理だ」
「でも、監督って呼びたいです」
拓人は、少し笑った。
「好きに呼べ」
全員が揃うと、拓人は子供たちを整列させた。
二十人近い子供たち。年齢も、体格も、性格も、それぞれ違う。
拓人は、一人一人の顔を見渡した。
これまで、プロの選手を分析する時、拓人は数値やデータを重視していた。走行距離、パス成功率、シュート精度。
この子たちに、そういう数字はない。
拓人は、育児で身につけた感覚を、思い出した。
結衣が泣く前の、上唇のわずかな歪み。葵の瞬きの回数。航太の早口になるタイミング。
子供の変化を読む力。それは、サッカーの技術とは、まったく別の種類の観察だった。
「今日は、まず、みんなの動きを見せてもらう」
拓人は、子供たちに言った。
「特別なことはしなくていい。いつも通り、練習してくれ」
子供たちは、少し戸惑いながらも、いつものメニューを始めた。
拓人は、その様子を、ベンチに座って、じっと見つめた。
パス回しの練習。ドリブル練習。シュート練習。
一人一人の動きを、丁寧に観察した。
蓮は、やはり抜きん出ていた。タッチの柔らかさ、視野の広さ、判断の速さ。25話で見た時と、変わらない才能があった。
拓人が注目したのは、蓮だけではなかった。
背の小さい子が、パスを受ける前に、何度も首を振って周りを確認していた。技術は、まだ粗い。でも、視野の使い方は、年齢の割に洗練されていた。
別の子は、ドリブルでは目立たないが、味方が困っている時に、必ずフォローの動きをしていた。誰かに指示されたわけではなく、自然にそうしていた。
拓人は、その一人一人の特徴を、頭の中で整理していった。
これまでのプロの世界なら、「うまい選手」を中心に、チームを組み立てるのが当たり前だった。
拓人の中に、違う考えが浮かんでいた。
うまい子を使うのではなく、この子たちが、それぞれどこで輝けるかを考える。
その発想は、葵や航太、結衣と接する中で、自然と身についたものだった。
葵の感受性の強さは、弱さではなく、強さだった。航太の頑固さも、単なる反抗ではなく、自分なりの筋を通そうとする意志だった。結衣の伝い歩きの一歩一歩には、その子なりのペースがあった。
子供は、誰もが、同じように育つわけではない。
それぞれの子が、それぞれのやり方で、輝く場所を持っている。
サッカーも、同じはずだった。
練習の途中、拓人は、コーンドリブルで何度も失敗している子を見つけた。
名前は、まだ覚えていなかった。他の子より、少し体格が小さい。ボールが足から離れて、追いかけてばかりいた。
拓人は、その子に近づいた。
「ちょっと、見せてくれ」
子供は、少し緊張した様子でドリブルをした。
やはり、コントロールが安定していない。
でも、拓人は、その子の動きに、別の部分を見ていた。
ボールを失った後の、追いかける速さ。切り替えの早さ。
「お前、走るの速いな」
拓人が言うと、子供は驚いた顔をした。
「え、そうですか」
「ドリブルは、まだこれからだ。でも、ボール失った後、誰よりも早く戻ってる」
子供は、少し照れくさそうな顔をした。
「別に、意識してないです」
「意識してないなら、なおさら才能だ」
拓人は、その子の頭を、軽く叩いた。
「名前は」
「翔太です」
「翔太、お前は、守備の切り替えが武器になる。ドリブルは、無理に上達させなくていい。今のままで、戦い方はある」
翔太は、少し考えるような顔をした。
「戦い方、って」
「大会で、教えてやる」
翔太は、嬉しそうに頷いて、また練習に戻っていった。
拓人は、その背中を見送りながら、思った。
蓮のような、誰の目にもわかりやすい才能は、稀だ。
目立たない才能は、こうして、一人一人の中に、確かに存在している。
それを見つけ出すことが、指導者の仕事なのかもしれない。
昼過ぎ、練習が一区切りついた。
子供たちが、水分補給のために、ベンチに集まってきた。
拓人は、佐藤の隣に座って、午前中の練習を振り返った。
「どうだった」
佐藤が聞いてきた。
「面白いです」
「面白い?」
「一人一人、全然違う。それが、見てて飽きない」
佐藤は、少し意外そうな顔をした。
「お前でも、そんなふうに思うんだな」
「思いますよ」
拓人は、水を一口飲んだ。
「プロの世界だと、結果が全部です。でも、ここは、違う」
「違う、というのは」
「まだ、この子たちが、これから何になっていくか、誰にもわからない。その途中を見てるみたいです」
佐藤は、しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
「お前、指導者、向いてるかもな」
拓人は、その言葉を、静かに受け止めた。
否定する気には、なれなかった。
午後の練習が始まった。
拓人は、翔太を含む、目立たない子供たちにも、一人ずつ声をかけていった。
それぞれの子に、それぞれの言葉を、丁寧に届けた。
蓮が、少し離れたところから、その様子を見ていた。
「糸井さん」
「なんだ」
「みんなに、それぞれ違うこと言ってますよね」
「ああ」
「なんでですか。同じこと教えた方が、簡単じゃないですか」
拓人は、少し考えてから答えた。
「簡単だけど、それだと、みんなが同じ選手になろうとする」
「それが、悪いんですか」
「悪くはない。でも、もったいない」
蓮は、その言葉を、しばらく考えているようだった。
「もったいない、か」
「お前は、お前にしかない才能がある。翔太は、翔太にしかない才能がある。それを、それぞれ伸ばした方が、チームは強くなる」
蓮は、少し黙ってから、頷いた。
「わかった気がします」
練習が終わる頃、日はすでに傾きかけていた。
拓人は、グラウンドに残る子供たちの姿を、もう一度見渡した。
一週間で、どこまでできるかは、まだわからない。
蓮に感じたのと同じ種類の可能性を、拓人は、もう一人の子供の中にも、見つけていた。
普段、目立たない子だった。でも、今日の練習で見せた、ある一瞬の動きが、拓人の目を捉えて離さなかった。
「大会、その子を、鍵にする」
拓人は、心の中で、そう決めていた。
◆次回予告◆
大会初日。
格上との対戦が決まる中、拓人が選んだスタメンに、佐藤が驚きの声を上げる。
「え、あの子を、先発で使うのか」
拓人は、静かに頷く。
その采配が、大会全体の流れを変えることになるとは、まだ、誰も知らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




