第41話 結衣と公園
日曜の午前中、拓人は結衣を連れて、近所の公園に向かった。
抱っこ紐ではなく、ベビーカーを押しながら歩いた。結衣は、道の途中で見かける犬や鳩に、いちいち反応して声を上げていた。
「わんわん」
「そうだな、わんわんだな」
公園に着くと、砂場のある一角に向かった。
すでに、何組かの親子が遊んでいた。拓人は、その邪魔にならないように、少し離れた場所にレジャーシートを広げた。
結衣を砂場に座らせると、結衣は迷わず、両手で砂を掴み始めた。
「上手だな」
拓人は、隣にしゃがんで、結衣の様子を見守った。
結衣は、砂をすくっては、指の間からこぼす動作を、何度も繰り返していた。飽きることなく、同じことを続けている。
拓人は、その様子を眺めながら、ふと、遥のことを思い出した。
遥も、こういう時間を、想像していたのだろうか。
自分がいなくなった後、拓人が、こうして子供と砂場に座っている姿を。
「遥」
拓人は、誰にも聞こえない小さな声で、呟いた。
「見てるか」
もちろん、返事はなかった。
それでも、話しかけずにはいられなかった。
「結衣、砂遊び、上手になったぞ」
結衣が、その声に反応するように、拓人の顔を見上げた。
「なんでもない」
拓人は、少し笑って、結衣の頭を撫でた。
しばらく、結衣と二人で、砂場で時間を過ごした。
途中、結衣が、隣で遊んでいた別の子供のおもちゃに手を伸ばそうとした。
「結衣、それは違う子のだぞ」
拓人が止めると、結衣は、少し不満そうな顔をした。
その様子に、拓人は思わず笑ってしまった。
「葵にそっくりだな」
一人で呟いた言葉に、また笑った。
しばらくして、拓人は、視線を感じた。
顔を上げると、少し離れたベンチに、一人の女性が座っていた。
年齢は、四十代くらいだろうか。子供を連れている様子はなく、一人で座って、こちらをじっと見ていた。
拓人は、少し警戒した。
これまでも、注目を浴びることには慣れていた。でも、子供と一緒にいる時は、その視線に、いつも以上に敏感になっていた。
女性は、拓人と目が合うと、少し会釈をした。
そして、ゆっくりと近づいてきた。
「すみません、糸井さんですよね」
拓人は、結衣を抱き寄せながら答えた。
「そうですが」
女性は、少し緊張した様子で言った。
「引退会見、拝見しました。あの、失礼だったら申し訳ないんですが」
「はい」
「うちも、主人を病気で亡くしまして。子供二人、女手一つで育ててるんです」
拓人は、その言葉に、姿勢を正した。
「そうでしたか」
「糸井さんの会見、見て、すごく励まされました。父親として、こんなふうに、子供のために生きる決断をする人がいるんだって」
拓人は、少し照れくさくなった。
「大したことじゃないです」
「大したことです」
女性は、少し強い口調で言った。
「私たちみたいな、片親で育てる人間にとって、あの言葉は、すごく大きかったんです」
拓人は、その言葉を、静かに受け止めた。
「ありがとうございます」
女性は、少し微笑んだ。
「すみません、急に。お邪魔しました」
「いえ」
女性は、もう一度会釈して、ベンチに戻っていった。
拓人は、その後ろ姿を見送った。
結衣を見ると、何も気にせず、また砂を掴んでいた。
拓人は、しばらく、女性の言葉を反芻した。
自分の決断が、こんな形で、誰かの支えになっている。
これまで、自分の引退は、あくまで、拓人と家族だけの問題だと思っていた。
あの記者会見の言葉は、拓人の想像以上に、遠くまで届いていた。
同じように、大切な人を失いながら、子供を育てている人が、他にもいる。
その人たちにとって、拓人の選択は、小さな灯りになっているのかもしれない。
拓人は、結衣を抱き上げた。
「お前のおかげだぞ、結衣」
結衣は、意味もわからず、また笑った。
しばらくして、砂場を後にして、遊具のある方へ移動した。
ブランコに、結衣を乗せた。ゆっくりと押すと、結衣は、声を上げて喜んだ。
「もっと?」
結衣は、まだ言葉にならない声で、何かを訴えていた。
拓人は、それを「もっと」という意味だと解釈して、もう一度押した。
しばらく、その繰り返しを続けた。
日が高くなり、公園には、さらに多くの親子が集まってきた。
拓人は、周りの景色を見渡した。
子供を遊ばせる父親、母親。それぞれの家族が、それぞれの時間を過ごしていた。
その中に、拓人も、ごく自然に、溶け込んでいた。
かつて、世界中のスタジアムで、数万人の視線を浴びていた男が、今は、この小さな公園で、一人の父親として過ごしている。
昼過ぎ、拓人は結衣をベビーカーに乗せて、公園を後にした。
帰り道、拓人はふと、さっきの女性の言葉を、もう一度思い出した。
「父親として、こんなふうに、子供のために生きる決断をする人がいるんだって」
誰かに証明してもらう必要のない選択だった。それでも、こうして思いがけない形で背中を押されると、胸の奥に、じんわりと力が湧いてくるのを感じた。
家に着くと、葵が、玄関で待っていた。
「パパ、結衣、公園楽しかった?」
「楽しかったみたいだぞ」
結衣を抱っこ紐から下ろすと、葵が、すぐに結衣の相手をし始めた。
拓人は、その様子を見ながら、リビングのソファに座った。
スマホを取り出して、今日のことを、少しだけメモに残した。
大した内容ではなかった。でも、忘れたくない一日だった。
その夜、拓人は佐藤に、今日の出来事を、簡単にメッセージで伝えた。
「公園で、面白い出会いがありました」
返信は、すぐに来た。
「お前、モテるからな」
「そういうんじゃないです」
「わかってるよ。良かったな」
拓人は、少し笑って、スマホを閉じた。
窓の外を見ると、夕暮れが、街を橙色に染めていた。
明日からも、この日常が続いていく。
拓人は、そのことに、静かな安心を感じていた。
◆次回予告◆
数日後、学校帰りの葵と蓮が、エルザタワーに立ち寄る。
二人は、いつの間にか、仲直りして親友になっていた。
おやつを食べながら笑い合う二人を見て、拓人は、あの日の校長室を思い出す。
そこに、佐藤が、ガハガハ笑いながら迎えに来る。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




