第39話 義父の背中
運動会の朝は、よく晴れていた。
拓人は、いつもより早く起きて、弁当を作った。三段の弁当箱に、卵焼き、唐揚げ、おにぎり。航太と葵の好物を、詰められるだけ詰めた。
「パパ、豪華すぎない?」
葵が、弁当箱を覗き込んで言った。
「初めての運動会だからな」
航太は、少し照れくさそうにしながらも、鏡の前で何度も体操服を確認していた。
小学校の校庭に着くと、すでに大勢の保護者が場所取りをしていた。
拓人は、レジャーシートを広げて、結衣を抱っこ紐に入れたまま座った。
しばらくして、節子と誠がやってきた。
「拓人さん、おはよう」
節子が、明るく声をかけてきた。誠は、いつも通り、軽く会釈をしただけだった。
「来てくれて、ありがとうございます」
拓人が言うと、誠は小さく頷いた。
四人で並んで座った。誠は、プログラムを手に取って、じっと眺めていた。
開会式が始まった。
拓人は、周りの保護者たちの視線を、少し感じていた。元プロサッカー選手が、運動会に来ている。そのことに気づいた何人かが、こちらをちらちらと見ていた。
それも、すぐに気にならなくなった。
航太と葵の出番を、見逃さないようにするだけで、頭がいっぱいだった。
葵のダンスは、午前の早い時間だった。
「パパ、見て見て」
葵が、列に並ぶ前に、こちらに向かって手を振った。
拓人も、手を振り返した。
音楽が流れ、ダンスが始まった。
葵は、少し緊張した顔をしながらも、練習通りに体を動かしていた。
途中、隣の子と少しタイミングがずれた。
葵の顔が、一瞬、強張った。
でも、すぐに立て直して、最後まで踊り切った。
拓人は、大きな拍手を送った。
誠も、静かに手を叩いていた。
節子は、写真を何枚も撮っていた。
ダンスが終わり、葵がこちらに走ってきた。
「どうだった?」
「よく頑張ったな。ずれても、諦めなかったのが良かった」
葵は、少し照れくさそうに笑った。
「見てたんだ、ずれたの」
「見てたぞ」
「恥ずかしい」
「恥ずかしくない。ちゃんと立て直しただろ」
葵は、拓人の言葉に、また少し照れた顔をして、水筒を取りに戻っていった。
午後、いよいよ航太のリレーの番になった。
拓人は、少し緊張していた。
自分が走るわけでもないのに、心臓が少し速くなっていた。
隣を見ると、誠が、いつになく身を乗り出していた。
「誠さん、リレー、楽しみですか」
拓人が聞くと、誠は、少し照れたように答えた。
「まあな」
短い返事だった。それでも、その表情には、いつもの無表情とは違う、確かな期待が見えた。
航太は、第三走者だった。
スタートの合図とともに、一走者、二走者と、バトンが繋がれていく。
航太の番になった。
前の走者からバトンを受け取ると、航太は、思い切り地面を蹴った。
拓人は、思わず立ち上がった。
「行け!」
航太の走りは、思っていたよりも速かった。
前を走る一人を、あっという間に抜き去った。
「すごい」
拓人は、無意識に呟いていた。
隣で、誠も、身を乗り出したまま、拳を握っていた。
「頑張れ!」
誠の声だった。
拓人は、驚いて誠を見た。
普段、決して大きな声を出さない誠が、声を張り上げていた。
航太は、最終的に二位でバトンを渡した。
チームは、そのまま二位でゴールした。
拓人と誠は、二人とも、しばらく興奮が冷めなかった。
「やりましたね」
「ああ」
誠は、短く答えながらも、まだ少し息が上がっているようだった。
運動会は、夕方近くに終わった。
閉会式の後、子供たちが着替えている間、拓人と誠は、二人でベンチに座っていた。
節子は、結衣をあやしながら、少し離れた場所にいた。
しばらく、二人とも黙っていた。
風が、校庭の砂埃を、静かに巻き上げていた。
誠が、ふと、口を開いた。
「拓人」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。いつもは「あんた」か、名字だった。
「はい」
誠は、少し間を置いてから、言った。
「遥は、お前のことが好きだったよ」
拓人は、何も言葉が出てこなかった。
誠は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、遠くで着替えている航太と葵を、じっと見ていた。
拓人は、誠の横顔を見た。
これまで、誠がこんなふうに、遥の話をしたことは、一度もなかった。
葬儀の日も、エルザタワーに来た日も、誠は、ただ静かに、家族を見守っているだけだった。
その誠が、今、初めて、自分の言葉で、遥のことを語った。
拓人は、何か言わなければと思った。
言葉が、見つからなかった。
誠は、それきり、また黙り込んだ。
夕日が、校庭を橙色に染めていた。
拓人は、その光の中で、誠の横顔を、しばらく見つめていた。
それでも、誠は、それを気にしている様子もなかった。
ただ、隣に座っているだけで、十分だという顔をしていた。
やがて、航太と葵が、着替えを終えて戻ってきた。
「パパ、お腹すいた」
葵の声で、拓人は我に返った。
「そうだな。帰ろうか」
拓人は、立ち上がった。
誠も、ゆっくりと腰を上げた。
帰り道、拓人は、誠の言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。
遥は、お前のことが好きだったよ。
その一言が、まだ胸の底に、そっと沈んだままだった。
◆次回予告◆
その夜、拓人は布団に入っても、誠の言葉が頭から離れなかった。
数日後、荒川の土手を、航太と二人で歩く時間ができる。
何も話さない。それでも、航太が、初めて自分から、拓人の隣を歩き始める。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




