第38話 専業パパ
引退から一ヶ月が経った。
拓人の一日は、すっかり新しいリズムに落ち着いていた。
朝五時起き。弁当作り。子供たちを送り出す。家事。買い出し。夕方の迎え。夕飯。宿題。風呂。寝かしつけ。
かつて、世界中のスタジアムで数万人の視線を浴びていた男の日常が、今は、この小さな繰り返しの中にあった。
その繰り返しの中に、拓人はこれまで知らなかった充実感を見出していた。
航太の反抗期は、まだ続いていた。
でも、以前とは質が違っていた。
口数は少ないままだったが、拒絶ではなくなっていた。
「今日、学校どうだった」
「普通」
「飯、何がいい」
「なんでもいい」
そっけない答えばかりだった。それでも、拓人が話しかけると、航太はちゃんと箸を止めて答えるようになっていた。
ある日の夕方、拓人は航太の部屋のドアが少し開いているのに気づいた。
覗くと、航太が机に向かって、ノートに何かを書いていた。
「何やってるんだ」
航太は、少し慌てたようにノートを閉じた。
「別に」
「見せろよ」
「やだ」
拓人は、それ以上、追及しなかった。
その代わり、夕食の時に、さりげなく聞いてみた。
「最近、何か新しいこと始めたのか」
航太は、箸を止めた。
「なんで」
「なんとなく」
航太は、少し考えてから、ぼそりと答えた。
「作文。コンクールに出すやつ」
拓人は、驚きを顔に出さないように気をつけた。
「どんな内容だ」
「言わない」
「そうか」
それ以上、聞かなかった。
その夜、拓人はリビングで一人、静かに嬉しさを噛み締めていた。
航太が、何かに自分から取り組んでいる。それだけで、十分だった。
葵は、相変わらず、感受性の強い子供だった。
学校でのちょっとした出来事に、大きく心を動かされる。友達と喧嘩をした日は、家に帰ってから、しばらく黙り込んでいる。
拓人には、その繊細さが、悪いことだとは思えなかった。
葵は、他人の痛みに、人一倍敏感だった。それは、蓮のことでも、自分自身のことでも、変わらなかった。
ある日、葵が学校から泣きながら帰ってきた。
「どうした」
「クラスの子が、飼ってた金魚が死んだって、泣いてた」
拓人は、少し戸惑った。
「お前の金魚じゃないだろう」
「わかってる。でも、悲しかったの」
拓人は、葵の頭を撫でた。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
葵の涙腺の緩さを、直そうとは思わなかった。
そういう心を持っていることは、この子の強さでもあるはずだった。
結衣は、日々、成長していた。
「ぱぱ」だけだった言葉が、少しずつ増えていった。「まんま」「わんわん」「ねんね」。
つかまり立ちができるようになり、伝い歩きも始まった。
拓人は、その一つ一つの変化を、見逃さないように、意識して見ていた。
かつて、航太や葵の成長を、拓人はほとんど見てこなかった。仕事に追われ、遥に任せきりだった。
だからこそ、結衣の一挙手一投足を、拓人は今、目に焼き付けるように見ていた。
ある日の午後、結衣がリビングを、伝い歩きで横切ろうとしていた。
拓人は、少し離れたところから、それを見守った。
結衣は、途中で何度もバランスを崩しかけた。でも、その都度、家具を掴んで、踏ん張った。
そして、ついに、ソファからテーブルまで、五歩ほどを、一人で歩き切った。
拓人は、思わず拍手した。
結衣は、拍手に驚いたような顔をした後、また、あの笑顔を見せた。
「今の見た?」
拓人は、リビングにいた葵に聞いた。
「見た! すごい!」
葵も、一緒になって拍手した。
その日の夜、拓人は動画を撮り忘れたことに気づいて、少し後悔した。
それでも、その光景は、拓人の記憶に、はっきりと刻まれていた。
節子が、週に何度か、家に来てくれるようになっていた。
「拓人さんも、少しは休まないと」
節子は、いつも心配そうに言った。
「大丈夫です」
「無理してない?」
「していません。これが、今の俺の仕事なので」
節子は、その言葉に、少し複雑な表情を見せた。
「遥がいたら、なんて言うかしらね」
拓人は、何と答えればいいか、しばらく考えた。
遥なら、きっと、笑って何か言うだろう。
その言葉を、拓人はまだ、正確には想像できなかった。
誠は、相変わらず、無口だった。
家に来ても、多くを語らない。でも、子供たちの様子を、じっと見ていることが多かった。
ある日、誠が、航太の勉強を見てくれていた。
拓人が覗くと、誠が、算数の問題を、丁寧に説明していた。
「ここは、こう考えるんだ」
航太は、真剣な顔で、それを聞いていた。
拓人は、その光景を、少し離れたところから見ていた。
誠が、こんなふうに誰かと向き合う姿を、見たことがなかった気がした。
数日後、学校から、お知らせのプリントが届いた。
「運動会のお知らせ」
航太と葵が通う小学校の、運動会だった。
拓人は、そのプリントを、リビングのテーブルに置いた。
「二人とも、出るのか」
「うん、リレー出る」
航太が答えた。
「私は、ダンス」
葵が続けた。
拓人は、カレンダーに、その日を書き込んだ。
初めての、子供たちの運動会だった。
その夜、拓人は節子に電話した。
「運動会、見に来ませんか。誠さんも」
節子は、少し驚いたような声で答えた。
「本当に、いいの?」
「もちろんです」
電話の向こうで、節子が誠に何か話しているのが聞こえた。
しばらくして、節子が戻ってきた。
「誠さんも、行くって」
拓人は、その返事に、少し嬉しくなった。
これまで、誠が、子供たちの学校行事に顔を出すことは、ほとんどなかった。
今回は、違うようだった。
「楽しみにしてます」
拓人は、そう言って電話を切った。
運動会の日が、少しずつ近づいていた。
◆次回予告◆
運動会当日、拓人はスタンドの端に、誠と節子の姿を見つける。
航太のリレーが始まると、誠が、珍しく身を乗り出す。
そして、すべての競技が終わった後、誠が拓人に、初めて口を開く。
「遥は、お前のことが好きだったよ」
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