第37話 川口フェニックス
引退から一週間が経った。
拓人の生活は、想像していたよりも早く、新しいリズムに馴染んでいた。
朝、子供たちの弁当を作る。学童と保育園への送り迎え。夕飯を作り、宿題を見て、風呂に入れて、寝かしつける。
以前は綱渡りだったその日常が、今は、ゆったりと流れていた。
佐藤から連絡が来たのは、そんなある日の午後だった。
「今日、フェニックスの練習あるけど、来るか」
拓人は、少し迷った。
「大事な話があるって言ってたやつですか」
「ああ。まあ、来てから話す」
拓人は、結衣を節子に預けて、荒川沿いのグラウンドへ向かった。
到着すると、子供たちがすでに練習を始めていた。
蓮が、いつも通り、群を抜いたプレーを見せている。周りの子供たちも、以前より動きが良くなっている気がした。
拓人はベンチに座って、その様子を眺めた。
「よお」
佐藤が、隣に腰を下ろした。
「今日は、何を教えてるんですか」
「パス回しの練習だ。三角形作って、ボール回すやつ」
拓人は、しばらく黙って見ていた。
子供たちの動きに、少しずつ、気になる点が見えてきた。
ある子は、パスを受ける前に、周りを見ていない。ある子は、ボールを止める瞬間に、体が固まっている。
以前の拓人なら、そういう情報を、頭の中でただ処理していただけだった。
今は、少し違う感覚があった。
その子たちの表情の変化まで、自然と目に入ってくる。
うまくいかない時の、悔しそうな顔。うまくいった時の、誇らしそうな顔。
育児で身についた観察眼が、ここでも同じように働いていた。
「なあ、拓人」
佐藤が、練習を見ながら言った。
「あの、パス受けるの下手な子、いるだろ」
「ああ、いますね」
「あいつ、家で何かあったらしくてな。最近、元気ない」
拓人は、その子を見た。
確かに、他の子供たちよりも、動きに元気がなかった。ボールを受けても、すぐに次のプレーに移らない。
「話、聞いてみたんですか」
「聞こうとしたけど、うまく話してくれなくてな」
拓人は、少し考えた。
「無理に聞かなくていいと思います」
「え」
「待てば、そのうち話すかもしれません」
佐藤は、拓人を見た。
「お前が、俺に教えてくれたことだろ、それ」
拓人は、少し笑った。
「兄貴の受け売りです」
練習が進むにつれて、拓人はいくつかの子供たちの癖に気づいていった。
シュートを打つ前に、必ず一瞬、ボールを見つめる子。パスを出す時、いつも同じ方向にしか目をやらない子。
拓人は、それをノートに書き留めるようなことはしなかった。ただ、頭の中で、静かに整理していった。
練習の休憩中、蓮が拓人のところに走ってきた。
「糸井さん、見てくれてました?」
「見てたぞ」
「どうでした?」
拓人は、少し考えてから答えた。
「お前、パスの受け方、少し雑になってる。周り見る前に、ボール見すぎだ」
蓮は、少し驚いた顔をした。
「え、なんでわかるんですか」
「観察眼だ」
「観察眼?」
「お前らを見る目のことだ」
蓮は、意味がわからないという顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「もう一回やってみます」
蓮は、グラウンドに戻っていった。
拓人は、その背中を見送った。
練習が終わった後、子供たちが解散していく中、拓人は佐藤と二人、ベンチに残った。
「今日の話、なんですか」
拓人は、改めて聞いた。
佐藤は、少し姿勢を正した。
「実はな」
「はい」
「お前に、フェニックスの練習、定期的に手伝ってほしい」
拓人は、佐藤を見た。
「正式な監督とかコーチじゃない。今はまだ、ボランティアみたいな形でいい。でも、子供たちに、もっとちゃんとしたサッカーを教えてやりたい」
佐藤は、真剣な顔をしていた。
「俺には、素人の指導しかできない。お前がいれば、あいつらは、もっと伸びる」
拓人は、しばらく黙っていた。
引退したばかりだった。まだ、指導者としての道を、真剣に考えたことはなかった。
それでも、今日、蓮の背中を見送った瞬間の感覚が、まだ胸の奥に残っていた。
「考えさせてください」
拓人は、正直に答えた。
「もちろんだ。急がせるつもりはない」
佐藤は、缶コーヒーを差し出してきた。
拓人は、それを受け取った。
まだ温かかった。
「兄貴」
「なんだ」
「なんで、俺にそこまで期待するんですか」
佐藤は、少し笑った。
「アップリケ見た時から、決まってる」
拓人は、その言葉に、何も返せなかった。
「お前は、本気で何かを大事にできる人間だ。子供にも、それは伝わる」
拓人は、缶コーヒーを一口飲んだ。
甘かった。
グラウンドを出る頃、夕日が荒川を橙色に染めていた。
子供たちの声が、まだどこかで聞こえている気がした。
家に帰る車の中で、拓人は今日の出来事を、何度も反芻した。
蓮の背中。佐藤の言葉。子供たちの表情。
現役時代、拓人はいつも、次のシーズン、次の試合、次のタイトルを見据えて生きてきた。
今、目の前にあるのは、もっと近い距離の景色だった。
家に着くと、航太が玄関で待っていた。
「パパ、どうだった、フェニックス」
拓人は、少し考えてから答えた。
「楽しかった」
その一言に、自分でも少し驚いた。
心から、そう思っていた。
夜、子供たちが寝静まった後、拓人はリビングのソファに座って、佐藤の言葉を思い出していた。
正式な監督じゃない。ボランティアでいい。
その言葉の軽さとは裏腹に、拓人の胸の内では、答えが少しずつ形を持ち始めていた。
まだ、口にする段階ではなかった。
それでも、明日のグラウンドが、今から待ち遠しかった。
第1章 完
◆次回予告◆
翌朝、拓人はいつも通り、子供たちの弁当を作る。
サッカー選手としての日々に、区切りをつけた朝。
第2章「父になる(子育て専念編)」、開幕。
欧州の栄光から遠く離れた、泥臭い日常の中で、拓人は、自分でも気づかないうちに、次の人生を歩み始めていた。
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