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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第36話 引退の朝

目が覚めたのは、五時前だった。


いつもの時間だった。練習のために、体に染みついた時間。


拓人はしばらく、ベッドの中で天井を見つめていた。


今日から、練習はない。


頭ではわかっている。それでも、体は、まだそれを理解していないようだった。


静かに起き上がった。子供たちは、まだ眠っている。


リビングに降りると、家の中は、しんと静まり返っていた。


昨日までの騒がしさが、嘘のようだった。


引退試合の余韻が、まだ体のどこかに残っていた。レアルのユニフォームの重さ。レッズのユニフォームの軽さ。ルカとの握手。中山の胴上げ。木村の涙。スタンドで手を振っていた家族。


それらすべてが、遠い夢のように感じられた。


拓人は、玄関に向かった。


下駄箱の上に、スパイクが置いてあった。


昨日、試合で履いていたものだった。芝の汚れが、まだ靴底に残っている。


拓人は、それを手に取った。


リビングに戻り、床に新聞紙を広げた。その上に座って、道具を並べた。ブラシ、クロス、専用のクリーム。


これまで、遠征のたびに、専属のスタッフがスパイクの手入れをしてくれていた。自分で磨く機会は、ほとんどなかった。


今日だけは、自分でやりたかった。


拓人は、まずブラシで、靴底の汚れを落とし始めた。


芝の緑が、少しずつ剥がれ落ちていく。


指先に、昨日の試合の感触が蘇った。


前半、ルカからのスルーパスを受けた瞬間。キーパーと一対一になった時の、静かな集中。ボールがネットに吸い込まれる音。


後半、木村へのパス。決まったシュートを見た時の、誇らしさ。


拓人は、ブラシを動かす手を、一度止めた。


もう二度と、この感覚を味わうことはない。


そのことを、改めて実感した。


寂しさよりも、やり切ったという納得の方が、少しだけ勝っていた。


拓人は、また手を動かし始めた。


汚れを落とし終えると、次はクリームを塗った。革の表面が、少しずつ艶を取り戻していく。


指の動きは、丁寧だった。誰かに見せるためではなかった。ただ、この一足に、これまでの感謝を込めたかった。


物心ついた時から、ボールを蹴ってきた。施設にいた頃、唯一、自分を認めてくれるものがサッカーだった。誰にも褒められなくても、ボールを蹴っている時だけは、自分が自分でいられた。


高校で、遥に出会った。ドルトムントで、初めて世界を知った。レアルで、頂点を掴んだ。


そして、川口で、父親になった。


磨き終わると、拓人はスパイクを電気の下にかざした。


光を反射して、艶やかに輝いていた。


これほど丁寧に磨いたのは、初めてかもしれない。


拓人は、新聞紙を片付けて、スパイクを両手で持った。


玄関に戻り、下駄箱を開けた。


一番上の段に、それを置いた。


これまで、遠征用のバッグに入れて、常に持ち歩いていたものだった。もう、その必要はない。


下駄箱の扉を、静かに閉めた。


拓人は、しばらく、閉じた扉の前に立っていた。


台所に立って、コーヒーを淹れた。


いつもより、少し濃いめに。


マグカップを持って、リビングのソファに座った。


窓の外は、まだ薄暗かった。


これまで、この時間は、練習に向かう準備をしていた。ユニフォーム、シューズ、栄養補給食。頭の中では、今日のメニューを組み立てていた。


今は、何もない。


その「何もない」という感覚が、拓人にとって、初めての経験だった。


コーヒーを一口飲んだ。


苦かった。でも、悪くなかった。


しばらくして、廊下から足音が聞こえた。


航太だった。


「パパ、こんな時間に起きてるの」


「ああ」


「眠れなかった?」


拓人は少し考えた。


「いや。目が覚めただけだ」


航太は、拓人の隣に座った。


「スパイク、磨いたの」


下駄箱の方を見ながら、航太が聞いた。


「ああ」


「見せて」


拓人は立ち上がって、下駄箱からスパイクを取り出した。


航太の前に、そっと置いた。


航太は、それをじっと見つめた。


「すごい、ピカピカ」


「昔から、こうやって磨くの、好きだったんだ」


「知らなかった」


拓人は、少し笑った。


「言う機会が、なかっただけだ」


航太は、スパイクを手に取った。


軽く、指でなぞった。


「これ、もう履かないんだよね」


「ああ」


「もったいなくない?」


拓人は、少し考えてから答えた。


「もったいなくはない。使い切ったからな」


航太は、その言葉の意味を、しばらく考えているようだった。


それから、スパイクを、そっと拓人に返した。


「大事にしまっといてよ」


「わかった」


拓人は、もう一度、下駄箱にスパイクを戻した。


今度は、少し丁寧に、真ん中に置いた。


葵と結衣が起きてくるまで、まだ時間があった。


拓人は、台所に立って、弁当を作る準備を始めた。


もう、自分の分の栄養管理は必要ない。子供たちのための弁当だけを作ればいい。


卵を割りながら、拓人はふと思った。


今日から、毎朝、こうして子供たちのために台所に立つ。


その日常が、これから何年も続いていく。


悪くない朝だ、と拓人は思った。


弁当箱に卵焼きを詰めていると、スマホが震えた。


佐藤からのメッセージだった。


「引退の朝、どんな気分だ」


拓人は、少し考えてから返信した。


「静かです。でも、悪くないです」


すぐに、返信が来た。


「そうか。じゃあ、そろそろ次の話するか」


「次の話?」


「フェニックス、見に来ないか。近々、大事な話がある」


拓人は、その文面を、しばらく見つめた。


大事な話。


何のことか、まだわからなかった。


それでも、その言葉に、胸の奥が少しだけ軽く弾んだ。


朝日が、窓から差し込み始めていた。


新しい一日が、始まろうとしていた。


◆次回予告◆


数日後、拓人は佐藤に誘われ、川口フェニックスの練習を見学に行く。


子供たちと自然に接するうちに、育児で磨いた観察眼が、指導にも通じることに気づき始める。


そして練習の終わり、佐藤が拓人に、思いがけない言葉を投げかける。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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