第35話 最後の試合
引退会見から二週間後、拓人のスマホに一本の連絡が入った。
レアル・マドリーの広報部からだった。
「来月、アジアツアーで来日する。東京での一戦、糸井の引退試合として組ませてくれないか」
拓人は、その申し出に驚いた。
「本当に、いいんですか」
「クラブとしても、お前の背番号を、きちんと送り出したい。ファンも、それを望んでる」
電話の向こうの声に、迷いはなかった。
拓人は、少し考えてから答えた。
「ありがとうございます。お受けします」
試合は、埼玉スタジアムで組まれることになった。
レアル・マドリーの選手たちにとっては、オフシーズンの海外ツアーの一環だった。拓人にとっては、正式な最終試合になる。
前半はレアルの選手として。後半はレッズの選手として。
そんな提案をしたのは、レッズの強化部長だった。
「糸井、お前の人生そのものを、一試合で見せてやれ」
拓人は、その言葉に、少し笑った。
「大げさですよ」
「大げさでいいんだよ、こういう時は」
試合当日、拓人はレアルのロッカールームに入った。
見慣れたエンブレム。見慣れたユニフォームの匂い。
そこに、懐かしい顔があった。
「よお、拓人」
ルカだった。長年のチームメイトであり、共に数々のタイトルを掲げてきた盟友。
「久しぶりだな」
「引退するんだって? 早すぎるだろ」
「お前も、いつかわかる」
ルカは、少し笑った。
「今日は、俺たちのユニフォームで、最後まで暴れてくれよ」
拓人は、レアルのユニフォームに袖を通した。
久しぶりの感触だった。体に、まだ馴染みが残っていた。
ピッチに出ると、スタジアムは満員だった。
赤いレッズのユニフォームと、白いレアルのユニフォームが、スタンドで入り混じっていた。
場内アナウンスが流れた。
「本日は、糸井拓人選手の引退試合として、特別な形での開催となります。前半は、古巣レアル・マドリーの一員として。後半は、浦和レッズの一員として、ピッチに立ちます」
歓声が上がった。
拓人は、白いユニフォームを着たまま、ピッチの中央に立った。
キックオフの笛が鳴った。
前半、拓人はかつての感覚を取り戻すように、ゆっくりとプレーした。
ルカとのコンビネーションは、何年経っても衰えていなかった。パスを出す前から、お互いの動きが読めた。
前半30分、ルカからのスルーパスに、拓人が抜け出した。
キーパーと一対一。
拓人は、冷静に流し込んだ。
レアルのユニフォームを着たまま決めた、久しぶりのゴールだった。
スタジアムが、割れんばかりの歓声に包まれた。
拓人は、両手を広げた。
これが、レアルの選手としての、最後のゴールになる。
前半終了のホイッスルが鳴った。
拓人は、ロッカールームに戻った。
そこで、白いユニフォームを脱いだ。
代わりに用意されていたのは、赤いレッズのユニフォームだった。
背中に、見慣れた背番号が入っている。
拓人は、そのユニフォームに、ゆっくりと袖を通した。
これが、選手として袖を通す、最後のユニフォームになる。
後半、拓人はレッズの選手として、ピッチに戻った。
中山が、真っ先に駆け寄ってきた。
「糸井さん、こっちの背番号も、最高に似合ってますよ」
木村も、笑いながら拳を合わせてきた。
「後半、絶対決めましょう」
拓人は、頷いた。
後半15分、木村への丁寧なパスから、チームがチャンスを作った。
木村のシュートが決まった。
木村が、拓人を指差した。
拓人も、笑って親指を立てた。
後半30分、拓人はコーチと目を合わせた。
交代のタイミングだった。
拓人は、ゆっくりとピッチを歩き、タッチラインに向かった。
その間、スタジアム全体が、拓人の名前を歌い始めた。
「タクトー! タクトー!」
その声が、波のようにスタンドを渡っていった。
拓人は、タッチラインの手前で立ち止まった。
もう一度、スタジアムを見渡した。
観客席の中に、家族の姿を探した。
見つけた。
葵が、体操着袋を高く掲げて振っていた。航太が、拳を突き上げている。結衣は、節子に抱かれて、周りの熱気に驚いた顔をしていた。誠が、隣で静かに拍手をしていた。佐藤が、大声で何かを叫んでいる。声までは聞こえなかったが、その表情だけで、何を言っているのか、拓人にはわかった気がした。
拓人は、その全員に向けて、深く頭を下げた。
拍手が、さらに大きくなった。
頭を上げようとした。
でも、上がらなかった。
長い間、そのまま、頭を下げ続けた。
コーチが、そっと肩を叩いた。
「糸井、行こう」
その声で、ようやく顔を上げた。
ベンチに戻ると、控えの選手たちが立ち上がって、拍手で迎えてくれた。
ルカが、ピッチの反対側から、こちらに向けて敬礼のような仕草をした。
拓人も、それに応えた。
試合は、そのままレッズが2対1で勝利した。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、両チームの選手たちが、拓人のもとに駆け寄ってきた。
レアルの選手たちと、レッズの選手たちが、入り混じって拓人を取り囲んだ。
胴上げが、始まった。
拓人の体が、宙に浮いた。
「せーの!」
中山とルカ、両方の声が重なった。
そのたびに、スタジアムから歓声が上がった。
胴上げが終わると、拓人はピッチに降り立った。
ルカが、最後に近づいてきた。
「またな、拓人」
「ああ、また」
短いやり取りだった。
家族のもとへ向かうと、子供たちが先に駆け寄ってきた。
「パパ、二回もゴール見れた!」
葵が、飛びついてきた。
航太が、少し照れくさそうに、それでも隠さずに言った。
「白も赤も、どっちもかっこよかったよ」
拓人は、航太の頭に手を置いた。
結衣を抱き上げると、結衣は拓人の顔を見て、あの笑顔を見せた。
誠が、拓人の肩に手を置いた。
いつものように、多くを語らなかった。
その手のひらの重さだけが、拓人の肩にしばらく残った。
佐藤が、缶コーヒーを差し出してきた。
「兄貴」
「お疲れさん。あんな試合、二度と見られねえよ」
拓人は、缶コーヒーを受け取った。
スタジアムを出る頃には、日が暮れかけていた。
振り返って、もう一度、埼玉スタジアムを見た。
白と赤、二つのユニフォームを着た一日が、静かに終わろうとしていた。
◆次回予告◆
引退から一夜明けた朝、拓人は誰よりも早く目を覚ます。
いつものように、練習に行く必要はない。
それでも、体は自然に動いていた。
手にしたのは、もう二度と履くことのないスパイクだった。
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