第34話 引退会見
家族への報告は、拓人が思っていたよりも、静かに受け止められた。
「パパ、サッカー選手、辞めることにした」
その一言に、航太は一瞬、箸を置いて固まった。
「え」
「もう、決めた。強化部長にも、昨日の夜、伝えた」
葵は、きょとんとした顔をしていた。結衣は、何もわからないまま、パンを食べ続けていた。
航太が、椅子から立ち上がった。
拓人は、身構えた。
「本当に?」
「本当だ」
航太は、しばらく黙っていた。
それから、小さく、でもはっきりと言った。
「よかった」
その一言だけだった。
多くを語らない航太らしい、短い返事だった。
引退の正式発表は、それから三日後だった。
浦和レッズのクラブハウス、記者会見場。
拓人がドアを開けると、フラッシュの光が一斉に瞬いた。
用意された椅子に座る。目の前に、数十人の記者が並んでいた。テレビカメラのレンズが、こちらを向いている。
広報担当が、簡単な進行説明をした後、拓人にマイクを渡した。
拓人は、一度、深呼吸した。
「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」
会場が、静まり返った。
「今シーズンをもちまして、現役を引退することになりました」
どよめきが起きた。記者たちが、一斉にメモを取り始めた。
「今シーズン、チームは2位という結果を残しました。個人としても、多くのことを学ばせていただいたシーズンでした。にもかかわらず、この決断に至った理由を、お話しさせていただきます」
拓人は、会場を見渡した。
「三年前、妻を亡くしました。それから、三人の子供を、一人で育ててきました」
会場が、さらに静かになった。
「正直に言うと、最初は、何もできませんでした。オムツの替え方も、離乳食の作り方も、知りませんでした。周りの人たちに支えられながら、少しずつ、父親になっていきました」
拓人は、一度、言葉を切った。
「サッカーは、私の人生そのものでした。物心ついた時から、ボールを蹴ってきました。この仕事を、誇りに思っています」
記者たちが、次の言葉を待っていた。
拓人は、真っ直ぐにカメラを見た。
「でも」
会場の空気が、張り詰めた。
「レッズにとって、代わりの選手は他にもいます。でも子どもたちにとっての父親は、自分しかいない。サッカーを愛しているし、素晴らしい選手でありたいとも思っています。でもそれ以上に、彼らの父親でありたい」
会見場が、静かになった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、記者の一人が、小さく拍手をした。それが、周りに広がっていった。
拓人は、頭を下げた。
長い間、上げられなかった。
質疑応答の時間になった。
「今後の生活は、どうされるのですか」
「子育てに専念します。指導者としての道も、いつか考えるかもしれませんが、今は、まず父親として」
「お子さんたちの反応は」
拓人は、少し笑った。
「上の息子には、『よかった』と言われました。それだけですが、私には十分でした」
会場から、笑い声が上がった。硬かった空気が、少し緩んだ。
「最後に、ファンの皆様へ、メッセージをお願いします」
拓人は、カメラをもう一度見た。
「短い間でしたが、埼玉スタジアムで戦えたことを、誇りに思います。応援してくださった皆さんに、心から感謝しています」
「ありがとうございました」
拓人は、頭を下げた。
会見が終わり、控室に戻ると、広報担当が興奮した様子で言った。
「糸井さん、すごい反響ですよ。もうSNSで、あの言葉がトレンド入りしてます」
拓人は、実感がわかなかった。
子供たちのために、サッカーを辞める。ただ、それを話しただけのつもりだった。
車に乗り込み、家に向かった。
信号待ちで、スマホが震えた。
佐藤からのメッセージだった。
「見たぞ、会見。男だな、お前」
続けて、もう一通。
「今夜、祝杯だ。付き合え」
拓人は、少し笑った。
家に着くと、航太がリビングでテレビを見ていた。ちょうど、ニュースで会見の様子が流れていた。
「パパ、テレビに出てる」
葵が、指をさして言った。
「変な顔してる」
航太が、笑いながら言った。
拓人は、その様子を見ながら、ソファに腰を下ろした。
自分の言葉が、テレビの向こうで、何度も繰り返されていた。
「彼らの父親でありたい」
その一言が、画面越しに流れるたびに、拓人は少し照れくさくなった。
その夜、拓人はスマホでニュースサイトを開いた。
いくつもの記事が、会見の内容を報じていた。コメント欄には、批判的な言葉もあった。「もったいない」「まだやれたのに」。
それ以上に多かったのは、共感の声だった。
「感動した」「自分も見習いたい」「こんな父親になりたい」
拓人は、スマホを閉じた。
ソファに座ったまま、しばらく天井を見上げた。
明日から、練習に向かう朝は来ない。
その代わり、毎朝、子供たちの顔を見ながら一日が始まる。
翌朝、新聞を開くと、一面に大きな見出しが躍っていた。
「彼らの父親でありたい」
拓人は、しばらく、その文字を見つめた。
◆次回予告◆
引退会見から数日後、拓人は最後のホームゲームのため、埼玉スタジアムに向かう。
スタンドに、これまでで一番多くの人が集まっていた。
サポーターが、拓人の名前を叫び続ける。
その声は、いつまでも、鳴り止まなかった。
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