第33話 決断
指が、強化部長の番号の上で止まっていた。
拓人は、その画面をしばらく見つめていた。
夜の土手は、静かだった。街灯の下を、時折、自転車が通り過ぎていく。
電話をかければ、後戻りはできない。
そのことは、わかっていた。
それでも、後戻りしたいとは思わなかった。
拓人は、通話ボタンを押した。
呼び出し音が、三回鳴った。
「はい、糸井? こんな時間にどうした」
強化部長の声は、少し驚いていた。
「夜分にすみません」
「いや、いいけど。何かあったか」
拓人は、深く息を吸った。
「シーズン終了、お疲れ様でした。今日は、来季の契約について、お伝えしたいことがあって」
「ああ、あの話な。前向きに考えてくれてるか」
「いえ」
拓人は、一拍置いた。
「来季の契約はいりません」
電話の向こうが、沈黙した。
「……糸井、今、なんて」
「引退します」
強化部長の声が、しばらく戻ってこなかった。
「待て、待て。急にどうした。今シーズン、あんなに活躍したのに」
「ありがとうございます。おかげさまで、良いシーズンでした」
「じゃあ、なんで」
拓人は、川を見た。
「家族のためです」
「家族?」
「三人の子供がいます。父親として、一緒にいる時間が、俺には必要なんです」
強化部長は、しばらく黙っていた。
「それは、練習時間を調整するとか、そういうことじゃダメなのか」
「もう、調整の問題じゃないんです」
拓人は、静かに続けた。
「サッカーは、俺の人生の一部でした。誇りに思っています。でも、子供たちにとって、俺の代わりはいません。俺じゃなきゃいけない場所が、そこにあるんです」
強化部長は、また沈黙した。
やがて、ため息のような声が聞こえた。
「あんたらしいな」
「すみません」
「謝ることじゃない。ただ、うちのクラブとしては、痛手だ。ファンにも、選手にも」
「わかっています」
「一晩、考え直せないか」
拓人は、首を振った。声には出さなかったが、その仕草だけで、答えは決まっていた。
「もう、決めました」
強化部長は、しばらく何も言わなかった。
「わかった。正式な手続きは、また明日話そう」
「よろしくお願いします」
電話を切った。
拓人は、スマホをポケットにしまった。
物心ついた時から、ボールを蹴っていた。施設にいた頃も、サッカーだけが拓人の居場所だった。
そのサッカーを、今、自分の手で手放した。
不安がないと言えば、嘘になる。
それでも、拓人の中に、後悔はなかった。
土手に立ったまま、拓人は空を見上げた。
星は、あまり見えなかった。街の明かりが、夜空を薄く照らしている。
それでも、拓人は、しばらくその空を見続けた。
車に戻り、家に向かって走らせた。
家族には、まだ何も伝えていない。
明日、話そう。
そう決めていた。
家に着くと、リビングの電気は消えていた。子供たちは、もう寝ている時間だった。
拓人は、静かに寝室に向かった。
引き出しを開けて、遥の日記を取り出した。
最後のページを、もう一度開いた。
「あなたはきっと、どこでも10番よ。遅いけど」
拓人は、その文字を、指でなぞった。
「遥」
小さく、声に出した。
「今日、決めた」
返事は、もちろんなかった。
それでも、拓人には、遥が微笑んでいる気がした。
日記を、そっと閉じた。
翌朝、拓人は普段より早く起きた。
台所に立って、いつも通り弁当を作った。卵焼きを焼きながら、これが最後になるかもしれないと思った。
いや、違う。
これからは、毎朝、こうして弁当を作れる。
試合のための早起きではなく、子供たちのための早起きになる。
航太が起きてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
いつもと変わらない、短いやり取りだった。
それでも、拓人の胸の内では、この数時間で何もかもが変わっていた。
これから話すことが、この短いやり取りさえも、変えてしまうかもしれない。
拓人は、弁当箱に卵焼きを詰めながら、今日、家族に伝える言葉を、頭の中で組み立て始めた。
葵と結衣も起きてきて、いつも通りの朝食の時間になった。
食卓を囲む家族の顔を、拓人は一人一人、見渡した。
航太。葵。結衣。
この三人のために、決めたことだった。
食事が終わった後、拓人は箸を置いた。
「みんな、ちょっと聞いてほしい」
子供たちが、拓人を見た。
拓人は、深く息を吸った。
◆次回予告◆
拓人は、家族の前で、決めたことを告げる。
「パパ、サッカー選手、辞めることにした」
一瞬の沈黙の後、航太が椅子から立ち上がる。
その表情は、喜びなのか、戸惑いなのか、拓人にはまだ読み取れない。
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