第32話 シーズン終了
シーズン最終戦が終わった。
結果は、勝利。チームは、リーグ2位でシーズンを終えた。優勝には届かなかったが、開幕前の下馬評を大きく覆す結果だった。
ロッカールームでは、選手たちが笑い合っていた。
「来シーズンこそ」
中山が、拓人の肩を叩いた。
「そうだな」
拓人は、そう答えながらも、頭の片隅で別のことを考えていた。
来シーズン。
その言葉が、以前よりも重く響いた。
家族と選手たちに挨拶をして、拓人は一人でスタジアムを出た。
車を、いつもとは違う道に走らせた。
荒川の土手に着いたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
誰もいなかった。街灯が、等間隔に土手を照らしている。
拓人は車を降りて、歩き始めた。
昼間、航太と歩いた同じ道だった。あの朝の光とは違う、静かな夜の川面が、街の明かりを映していた。
拓人は、ゆっくりと歩きながら、この一年を振り返った。
移籍初日、選手たちの値踏みの視線。紅白戦でのミス。保育園の送り迎えに間に合うかの緊張。木村との会話。中山との会話。観察眼という言葉の意味に気づいた瞬間。
そして、家族との日々。
葵が体操着袋を抱えて座っていた校長室。佐藤との出会い。裏ごしの教え。航太との長い沈黙。結衣の初めての笑顔。
拓人はベンチに座った。
ポケットからスマホを取り出して、写真フォルダを開いた。
家族の写真が、何十枚も並んでいた。結衣の笑顔。葵が描いた絵。航太と土手を歩いた朝の後ろ姿。
一枚一枚、指でめくった。
途中で、手が止まった。
遥の写真だった。
結婚式の日。荒川の土手で撮った、若い頃の写真。
拓人は、その写真をしばらく見つめた。あの日の声が、まだ耳の奥に残っている気がした。
拓人は、遥の日記のことを思い出した。
あの日記は、まだ寝室の引き出しにしまってある。何度も読み返した。ページの端が、もう擦り切れかけている。
日記の最後のページに書かれていた言葉が、頭の中で蘇った。
「あなたはきっと、どこでも10番よ。遅いけど」
その言葉の意味を、拓人はずっと、サッカー選手としての自分に向けられたものだと思っていた。
どこのクラブに行っても、10番を背負うような存在であり続ける。
でも今、この土手で、拓人は違う意味に気づき始めていた。
10番。
チームの中心。試合を作る選手。周りを生かす選手。
それは、ピッチの上だけの話ではないのかもしれない。
葵にとって、拓人はベンチから見守る存在だった。航太にとっては、隣に座って待ってくれる存在。結衣にとっては、笑顔を向ける相手。誠にとっては、遥の分まで頑張る娘婿。佐藤にとっては、アップリケを縫った弟分。
サッカーの10番ではなく、家族の中の10番。
遥が言いたかったのは、そういうことだったのかもしれない。
拓人は、家事ノートのことも思い出した。
出産直後の遥が書いた、あのノート。離乳食の作り方、夜泣きの対処法、子供たちの好きな食べ物。拓人が一人でも困らないように、遥が最後の力を振り絞って書き残したもの。
あのノートの最後のページにも、同じ言葉が書いてあった。
あなたはきっと、どこでも10番よ。
遥は、拓人がサッカーを辞めることも、続けることも、想定していなかったかもしれない。ただ、どんな道を選んでも、拓人が誰かの中心になれる人間だと、信じていた。
拓人は、スマホをポケットにしまった。
風が、川面を渡ってきた。
長期契約の話。航太の「辞めないでね」という言葉。葵の絵。結衣の笑顔。
それぞれ別の場所から来たはずの記憶が、気づけば同じ一点を指していた。
その先にある答えを、拓人はまだ、声に出せずにいた。
拓人は、立ち上がった。
もう一度、川を見た。
自分は本当に、それを選べるのか。
家族のために、世界最高峰のピッチを、自分から降りられるのか。
拓人はポケットからスマホを取り出した。
強化部長の電話番号を、画面に表示させた。
指が、その番号の上で、しばらく止まった。
◆次回予告◆
拓人は、電話をかける。
「来季の契約はいりません」
その一言に、電話の向こうの強化部長が、言葉を失う。
翌朝、拓人は家族の前に立つ。
「大事な話がある」
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