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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第31話 荒川沿いの朝

朝五時、拓人は航太の部屋のドアをそっとノックした。


返事はなかった。


もう一度、少し強めにノックした。


「……なに」


くぐもった声が返ってきた。


「散歩、行くか」


しばらく、返事がなかった。


「今?」


「今」


またしばらく、間があった。


「わかった」


意外な返事だった。断られる覚悟もしていた。


十分後、航太がジャージ姿で玄関に出てきた。寝癖がついたまま、目をこすっている。


「どこ行くの」


「荒川」


二人で家を出た。


外はまだ薄暗かった。空の端が、少しずつ白み始めている。


荒川の土手に着くと、川面が朝の光を反射していた。ジョギングをしている人が、時折すれ違う。


拓人は歩き出した。航太も、少し遅れてついてきた。


何も話さなかった。


風が、川の匂いを運んでくる。鳥の声が、あちこちで聞こえる。


その音だけで、沈黙は思ったより苦にならなかった。


航太は、ポケットに手を入れたまま、隣を歩いていた。


十分ほど、そのまま歩いた。


拓人は、佐藤の言葉を思い出していた。


待て。


言葉を探さなくていい。ただ、隣にいればいい。


土手の途中に、ベンチがあった。二人で座った。


川を見ながら、航太がぽつりと言った。


「昔、ここ、来たことあったよね」


拓人は驚いた。


「覚えてるのか」


「うっすら。小さい時、ママと三人で来た気がする」


拓人の記憶にも、その光景があった。遥がまだ元気だった頃。航太が三歳か四歳の頃。土手を、手を繋いで歩いた記憶。


「よく覚えてるな」


「なんとなく。写真、見たことあるし」


拓人は頷いた。


しばらく、また沈黙が続いた。


でも、さっきまでの沈黙とは、少し質が違っていた。


「パパ」


航太が、川を見たまま言った。


「うん」


「別に、パパのこと、嫌いなわけじゃない」


拓人は、隣を見た。航太は、まだ川を見つめていた。


「ただ、いなかった時間が、長すぎただけ」


拓人は、何も言わなかった。言葉を挟むと、崩れてしまう気がした。


「今、家にいてくれるの、正直、嬉しい」


航太の声は、小さかった。それでも、はっきりと拓人の耳に届いた。


「でも、いきなり、家族です、みたいな顔されても、困る」


拓人は頷いた。


「わかる」


「わかるの?」


「わからないけど、わかろうとはしてる」


航太は、少し笑った。


「なにそれ」


「うまく言えない」


「パパでも、うまく言えないことあるんだ」


「たくさんある」


航太は、また川を見た。


風が吹いて、水面が少し波立った。


「蓮くんのお父さんみたいに、なりたい?」


唐突な質問だった。


拓人は少し考えた。


「なれるとは思ってない。あの人には、あの人の積み重ねがある」


「じゃあ、パパは、どうなりたいの」


拓人は、その質問に、すぐには答えられなかった。


考えたことがなかった。どんな父親になりたいか。目標を、明確に持ったことがなかった。


「わからない」


正直に答えた。


「でも、今より、もう少し、お前と話せる父親には、なりたい」


航太は、しばらく黙っていた。


それから、立ち上がった。


「もう少し歩こう」


拓人も立ち上がった。


二人で、また土手を歩き始めた。


朝日が、川面をオレンジ色に染め始めていた。


「学校、どう」


拓人が聞いた。


「普通」


「友達は」


「まあ、いる」


短い答えだった。でも、拒絶ではなかった。


「サッカー、本当にやりたくないのか」


航太は、少し考えた。


「やりたくない、っていうか」


「うん」


「パパと比べられるのが、嫌」


拓人は納得した。それは、想像していなかった理由だった。


「比べない」


「でも、みんな比べる」


「俺は比べない」


航太は拓人を見た。


「本当に?」


「本当に」


航太は、また少し笑った。


「じゃあ、今度、公園でボール蹴るくらいなら、いいかも」


拓人は、頷いた。


「いつでも付き合う」


土手を一周して、家に戻る頃には、太陽が完全に昇っていた。


家に着くと、航太が先に部屋に戻る前に、振り返った。


「パパ」


「なんだ」


「レッズ、辞めないでね」


その一言に、拓人は、しばらく動けなかった。


長期契約の話。葵の絵。結衣の笑顔。今朝の航太の言葉。


それらが頭の中を巡る中で、拓人はまだ誰にも言っていない考えを、初めて自分の中ではっきりと自覚した。


◆次回予告◆


シーズンが終わりに近づく夜、拓人は一人で荒川沿いを歩く。


遥の日記の言葉が、頭をよぎる。


「あなたはきっと、どこでも10番よ」


その言葉の意味を、拓人はようやく理解し始めていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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