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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第30話 結衣の笑顔

保育園から電話が来たのは、練習の休憩中だった。


「糸井さん、結衣ちゃんが今日、初めて笑いました」


拓人は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「笑った、というのは」


「今まで、口角が少し上がる程度だったんですけど、今日は、目を細めて、声を出して笑ったんです。すごく可愛くて、思わずお電話しました」


拓人はコーチに事情を話して、練習を早退した。


車を飛ばしながら、これまでの結衣の表情を思い出そうとした。


生まれたばかりの頃は、泣くことしかできなかった。少しずつ、あやすと口角が上がるようになった。それでも、あれを「笑顔」と呼べるかどうかは、拓人にもわからなかった。


本当の笑顔を、拓人はまだ見たことがなかった。


保育園に着くと、先生が結衣を抱いて出迎えてくれた。


「糸井さん、見ててください。今、機嫌いいので」


先生が、結衣の顔の前で手を振った。


結衣の目が、拓人を捉えた。


一瞬、間があった。


それから、結衣の目が細くなった。口が大きく開いた。


声が出た。


「きゃっ」


短い声だった。でも、はっきりと、笑い声だった。


拓人は、その場に立ち尽くした。


結衣が、両手を広げて、拓人に向けて伸ばした。


抱き上げると、結衣はまた笑った。今度は、拓人の顔を近くで見て。


練習の疲れ。契約更新の悩み。航太との距離。葵の絵の意味。積み重なっていたすべてのものが、結衣の笑い声一つで、一瞬だけ消えた。


「良かったですね」


先生が言った。


拓人は、うまく声が出せなかった。


家に帰る車の中で、結衣はチャイルドシートの中で機嫌よく声を出していた。バックミラー越しに、その様子を見た。


さっきの笑顔を、もう一度見たかった。


信号待ちで、拓人は後ろを振り返った。


結衣と目が合った。


また、あの笑顔が出た。


拓人も、思わず笑った。


家に着くと、リビングで航太と葵が待っていた。


「結衣、笑ったんだって」


葵が、結衣を覗き込んだ。


「見せて見せて」


結衣を抱いたまま、リビングのソファに座った。葵が結衣の前で変な顔をした。


結衣は、しばらく葵を見つめていた。


それから、また笑った。


「わあ、ほんとに笑った!」


葵が声を上げた。航太も、近づいてきて結衣の顔を覗き込んだ。


「本当だ」


航太の声にも、隠しきれない嬉しさがあった。


拓人は、その様子を見ながら思った。


葵は、あの絵に描いた通り、いつも見守っている。航太は、少しずつ、隣に座ることを選ぶようになった。結衣は、今日、初めて拓人に向けて笑った。


三人とも、違う速さで、違う形で、拓人に近づいてきていた。


節子と誠にも、電話で報告した。


「結衣ちゃんが? まあ、良かったこと」


節子の声が、電話越しでも弾んでいた。


誠は電話に出なかったが、後でメッセージが届いた。


「良かったな」


たった四文字。誠らしい、短い言葉だった。


拓人には、その四文字に込められた重みが、もうわかるようになっていた。


夜、結衣を寝かしつける時間になった。


いつものように絵本を読んだ。結衣は、いつものページで、いつものように笑った。


今日のその笑顔は、拓人にとって特別なものに感じられた。


初めて見た本当の笑顔を、拓人はまだはっきりと覚えていた。目の細め方、口の開き方、声のトーン。すべてを、記憶に刻み込んでいた。


結衣が眠りに落ちた後、拓人はリビングに戻った。


ソファに座って、今日一日を振り返った。


練習では、若手選手の悩みを聞いた。試合の映像を分析した。長期契約の話も、まだ頭の片隅にあった。


それでも、今日、一番大きな出来事は、結衣の笑顔だった。


拓人は、スマホに保育園の先生から送られてきた写真を、もう一度開いた。


満面の笑みの結衣が、そこに写っていた。


その写真を見ながら、拓人はふと思った。


航太とは、まだこういう瞬間を、あまり共有できていない。


拓人は、スマホをテーブルに置いた。


翌朝の予定を、頭の中で組み立て始めた。


早朝、時間を作れないか。


航太と、二人だけの時間を。


◆次回予告◆


翌朝、拓人は航太の部屋のドアをそっとノックする。


「散歩、行くか」


航太は、意外そうな顔をしながらも、頷く。


荒川の土手を、二人で歩き始める。


何も話さない。それでも、隣を歩く足音だけが、少しずつ近づいていく。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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