第29話 葵の絵
夕食の席で、拓人はコーチから聞いた長期契約の話を切り出した。
「実は、クラブから、長く契約してほしいって話が来てる」
航太が箸を止めた。
「パパ、もっと長くレッズにいるの?」
その声に、期待のようなものが混じっていた気がした。
拓人はまだ答えを持っていなかった。
「まだ、決めてない」
「決めてないって、いつ決めるの」
「シーズンが終わる頃には」
航太は少し考えるような顔をした。それから、小さく頷いた。
「いてくれたら、嬉しいけど」
その一言だけで、拓人は胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の航太なら、こういう言葉を口にしなかった。それだけで、二人の間にあった距離が、確かに縮まっている証拠だった。
葵は、その会話をじっと聞いていた。
食事が終わると、葵が席を立って、自分の部屋に走っていった。
すぐに戻ってきた。
手に、丸めた画用紙を持っていた。
「パパ、見て」
拓人の前に、その紙を広げた。
絵だった。
緑色のピッチ。ベンチに座る、小さな人物。その後ろに、たくさんの観客席が描かれている。オレンジと赤のクレヨンで塗られた席には、点々と、丸い顔がいくつも並んでいた。
「これ、パパ」
葵が、ベンチに座る人物を指さした。
「学校で、『パパの仕事』っていう絵を描く授業があったの」
拓人は、絵をじっと見つめた。
ゴールを決める姿でも、トロフィーを掲げる姿でもなかった。
ただ、ベンチに座っている拓人。
「なんで、ベンチなんだ」
聞くと、葵は不思議そうな顔をした。
「だって、パパ、いつもベンチにいるでしょ」
拓人は言葉に詰まった。
試合中、フィールドプレーヤーとして走り回っている時間より、ベンチに座って、選手たちを見つめている時間の方が、確かに長かった。
その当たり前の事実を、拓人はこの絵を見るまで意識したことがなかった。
「先生に、素敵な絵ですねって言われた」
葵が、少し得意げに言った。
「みんな、シュートしてるパパの絵とか、優勝カップ持ってるパパの絵とか描いてたけど、私は違うのにした」
「なんで」
「だって、私が知ってるパパは、こっちだから」
拓人は、返す言葉を探した。見つからなかった。
観客席に描かれた丸い顔を、もう一度見た。
よく見ると、その中の一つに、水色のクレヨンで小さな丸が描き足されていた。
「これは」
「体操着袋」
葵が答えた。
「私、いつもこれ持ってスタジアム行くから」
歪んだピカチュウの体操着袋。あの日、佐藤の前に差し出したもの。
拓人は、その小さな丸を、じっと見つめた。
「大事にしてくれてるんだな」
「当たり前じゃん」
葵は、まるでそれが世界で一番当然のことのように言った。
拓人は絵を受け取って、丁寧に折り目を伸ばした。
「これ、飾ってもいいか」
「いいよ」
拓人はリビングの棚に、その絵を立てかけた。
トロフィーや表彰状が並んでいる棚の中で、その絵は少し不釣り合いに見えた。
でも、拓人にとっては、どのトロフィーよりも価値のあるものに思えた。
夜、子供たちが寝静まった後、拓人はもう一度、その絵を見つめた。
ベンチに座る自分。
観客席から見守る家族。
これまでの人生で、拓人はずっとピッチの中心にいることを目指してきた。ゴールを決める。試合を決定づける。世界一を目指す。
葵が描いたのは、そういう拓人ではなかった。
見守る側に回っている、静かな父親の姿だった。
それが、葵にとっての「パパの仕事」だった。
拓人は、絵の中の小さな丸――体操着袋を、指でそっとなぞった。
長期契約の話が、頭の中に戻ってきた。
このままレッズに残れば、この絵のような日常が、もう何年も続く。
葵の「今の方がいい」という言葉が、もう一度、耳の奥で響いた。
翌朝、拓人は結衣の部屋を覗いた。
ベビーベッドの中で、結衣がまだ眠っていた。
小さな胸が、規則正しく上下している。
拓人はしばらく、その寝顔を見つめた。
この子は、まだ拓人のプレーを一度も見たことがない。物心つく前に、拓人のキャリアが終わるかもしれない。
結衣にとっての「パパの仕事」は、どんな絵になるのだろうか。
そんなことを考えながら、拓人は静かにドアを閉めた。
◆次回予告◆
その日の午後、保育園から電話が来る。
「結衣ちゃんが、今日、初めて笑いました」
拓人は練習を早退して、保育園へ向かう。
到着した瞬間、結衣がこちらを見て、満面の笑みを浮かべる。
その笑顔に、拓人は、これまで感じたことのない何かを覚える。
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