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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第1章:父になる(現役編)

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第29話 葵の絵

夕食の席で、拓人はコーチから聞いた長期契約の話を切り出した。


「実は、クラブから、長く契約してほしいって話が来てる」


航太が箸を止めた。


「パパ、もっと長くレッズにいるの?」


その声に、期待のようなものが混じっていた気がした。


拓人はまだ答えを持っていなかった。


「まだ、決めてない」


「決めてないって、いつ決めるの」


「シーズンが終わる頃には」


航太は少し考えるような顔をした。それから、小さく頷いた。


「いてくれたら、嬉しいけど」


その一言だけで、拓人は胸の奥が温かくなるのを感じた。


以前の航太なら、こういう言葉を口にしなかった。それだけで、二人の間にあった距離が、確かに縮まっている証拠だった。


葵は、その会話をじっと聞いていた。


食事が終わると、葵が席を立って、自分の部屋に走っていった。


すぐに戻ってきた。


手に、丸めた画用紙を持っていた。


「パパ、見て」


拓人の前に、その紙を広げた。


絵だった。


緑色のピッチ。ベンチに座る、小さな人物。その後ろに、たくさんの観客席が描かれている。オレンジと赤のクレヨンで塗られた席には、点々と、丸い顔がいくつも並んでいた。


「これ、パパ」


葵が、ベンチに座る人物を指さした。


「学校で、『パパの仕事』っていう絵を描く授業があったの」


拓人は、絵をじっと見つめた。


ゴールを決める姿でも、トロフィーを掲げる姿でもなかった。


ただ、ベンチに座っている拓人。


「なんで、ベンチなんだ」


聞くと、葵は不思議そうな顔をした。


「だって、パパ、いつもベンチにいるでしょ」


拓人は言葉に詰まった。


試合中、フィールドプレーヤーとして走り回っている時間より、ベンチに座って、選手たちを見つめている時間の方が、確かに長かった。


その当たり前の事実を、拓人はこの絵を見るまで意識したことがなかった。


「先生に、素敵な絵ですねって言われた」


葵が、少し得意げに言った。


「みんな、シュートしてるパパの絵とか、優勝カップ持ってるパパの絵とか描いてたけど、私は違うのにした」


「なんで」


「だって、私が知ってるパパは、こっちだから」


拓人は、返す言葉を探した。見つからなかった。


観客席に描かれた丸い顔を、もう一度見た。


よく見ると、その中の一つに、水色のクレヨンで小さな丸が描き足されていた。


「これは」


「体操着袋」


葵が答えた。


「私、いつもこれ持ってスタジアム行くから」


歪んだピカチュウの体操着袋。あの日、佐藤の前に差し出したもの。


拓人は、その小さな丸を、じっと見つめた。


「大事にしてくれてるんだな」


「当たり前じゃん」


葵は、まるでそれが世界で一番当然のことのように言った。


拓人は絵を受け取って、丁寧に折り目を伸ばした。


「これ、飾ってもいいか」


「いいよ」


拓人はリビングの棚に、その絵を立てかけた。


トロフィーや表彰状が並んでいる棚の中で、その絵は少し不釣り合いに見えた。


でも、拓人にとっては、どのトロフィーよりも価値のあるものに思えた。


夜、子供たちが寝静まった後、拓人はもう一度、その絵を見つめた。


ベンチに座る自分。


観客席から見守る家族。


これまでの人生で、拓人はずっとピッチの中心にいることを目指してきた。ゴールを決める。試合を決定づける。世界一を目指す。


葵が描いたのは、そういう拓人ではなかった。


見守る側に回っている、静かな父親の姿だった。


それが、葵にとっての「パパの仕事」だった。


拓人は、絵の中の小さな丸――体操着袋を、指でそっとなぞった。


長期契約の話が、頭の中に戻ってきた。


このままレッズに残れば、この絵のような日常が、もう何年も続く。


葵の「今の方がいい」という言葉が、もう一度、耳の奥で響いた。


翌朝、拓人は結衣の部屋を覗いた。


ベビーベッドの中で、結衣がまだ眠っていた。


小さな胸が、規則正しく上下している。


拓人はしばらく、その寝顔を見つめた。


この子は、まだ拓人のプレーを一度も見たことがない。物心つく前に、拓人のキャリアが終わるかもしれない。


結衣にとっての「パパの仕事」は、どんな絵になるのだろうか。


そんなことを考えながら、拓人は静かにドアを閉めた。


◆次回予告◆


その日の午後、保育園から電話が来る。


「結衣ちゃんが、今日、初めて笑いました」


拓人は練習を早退して、保育園へ向かう。


到着した瞬間、結衣がこちらを見て、満面の笑みを浮かべる。


その笑顔に、拓人は、これまで感じたことのない何かを覚える。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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