第27話 待つということ
練習が終わると、佐藤からメッセージが届いていた。
「今夜、飯行くか」
断る理由もなかった。むしろ、誰かと話したい気分だった。
指定された店は、川口駅前の小さな焼き鳥屋だった。カウンターだけの狭い店内。煙が天井にこもっている。
佐藤はすでにビールを飲んでいた。
「よお」
「お疲れ様です」
拓人が座ると、佐藤が店主に「もう一本」と声をかけた。
しばらく、二人とも黙って焼き鳥を食べた。
「なんかあったろ」
佐藤が、串を置きながら言った。
「わかりますか」
「顔に書いてある」
拓人は苦笑した。
「航太のことで」
「聞こうか」
拓人は、昨夜のやり取りを話した。サッカーの話を持ち出したこと。航太が拒否したこと。「今更」という言葉。何を言っても、うまくいかなかったこと。
佐藤は黙って聞いていた。ビールを一口飲んで、また聞いた。
話し終えると、拓人は聞いた。
「兄貴なら、どうしますか」
佐藤は少し考えてから、口を開いた。
「お前、反抗期の息子に何か言おうとしてるだろ」
「はい」
「やめろ」
短い言葉だった。
「やめろって」
「言葉で説得しようとするな」
拓人は、その意味をすぐには理解できなかった。
「でも、何も言わなかったら、何も伝わらないんじゃ」
「伝わる」
佐藤は焼き鳥を一本、口に運んだ。
「言葉じゃなくても、伝わる」
拓人は黙って続きを待った。
「うちの上の子も、中学の頃、似たようなもんだったよ。何話しかけても、うるさいって顔されて。俺も最初は、あれこれ言って聞かせようとした。でも、逆効果だった」
「どうしたんですか」
「待った」
佐藤はグラスを置いた。
「何も言わずに、隣にいた。飯食う時、テレビ見てる時、車で送る時。何も言わないで、ただ、いた」
拓人は、その言葉を頭の中で反芻した。
「それだけで、変わったんですか」
「すぐには変わらない。何ヶ月もかかった。でも、ある日、向こうから話しかけてきた」
佐藤は、少し遠い目をした。
「大したことじゃなかった。『今日の晩飯、何』って聞いてきただけだ。でも、それが最初だった」
拓人は、佐藤の顔を見た。
普段、豪快に笑うこの男が、今は静かな目をしている。
「待て」
佐藤がもう一度言った。
「お前、反抗期の息子に何か言おうとしてるだろ。やめろ。待て」
その言葉が、拓人の中で、何かを揺らした。
これまで、拓人はずっと「正しい答え」を探していた。育児書を読み、ネットで検索し、専門家の意見を調べた。何を言えば伝わるのか。どういう言葉なら、航太の心に届くのか。
佐藤が言っているのは、その真逆だった。
言葉を探すのをやめる。
ただ、隣にいる。
拓人は、これまでのサッカー人生を思い返した。
判断を誤る選手は、大抵、焦っている。逆に、決定的な瞬間を作れる選手は、相手の出方をぎりぎりまで見ている。
「待つのは、怖いです」
拓人は正直に言った。
「怖いよ、そりゃ」
佐藤は笑った。
「何もしてない気がする。焦る。でも、何もしないことが、一番効くこともある」
拓人は、缶コーヒーではなく、今日はビールに口をつけた。
苦かった。でも、悪くなかった。
「兄貴」
「なんだ」
「ありがとうございます」
佐藤は、また豪快に笑った。
「礼はいらねえよ。俺だって、あんたのアップリケに救われた口だ」
その夜、家に帰ると、航太はすでに部屋にいた。
拓人は、いつものようにノックしようとして、止めた。
代わりに、リビングのソファに座った。
テレビをつけた。特に見たい番組があったわけではない。
しばらくして、航太が部屋から出てきた。
拓人を見て、少し驚いた顔をした。
「何してんの」
「別に。テレビ見てるだけだ」
航太は、少し戸惑いながらも、ソファの端に座った。
拓人は何も言わなかった。話しかけようとする衝動を、必死に抑えた。
テレビの音だけが、リビングに響いていた。
十分ほど、二人とも黙っていた。
航太が、ぽつりと言った。
「明日の給食、カレーなんだって」
拓人は、その言葉に、すぐには反応できなかった。
意味のない、何気ない一言だった。
それが、久しぶりに航太から自分に向けられた言葉だった。
「そうか」
拓人は、それだけ答えた。
余計なことは、言わなかった。
航太は、それ以上何も言わずに、テレビを見続けた。
翌日、練習に向かう前、拓人はグラウンドに立って、選手たちを見渡した。
木村。中山。若手選手たち。それぞれが、それぞれの悩みを抱えている。
これまで拓人は、彼らに何を教えるべきか、どう指導すべきか、そればかり考えていた。
もしかしたら、必要なのは指導ではなく、待つことなのかもしれない。
拓人はグラウンドに立ったまま、しばらく動かなかった。
◆次回予告◆
チームの雰囲気が、目に見えて変わり始める。
拓人が選手たちに向ける視線が、以前とは違うことに、誰もが気づき始めていた。
そしてその変化は、ピッチの上に、思いがけない結果をもたらす。
連勝が、始まろうとしていた。
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