第26話 航太の壁
リビングに入ると、航太がソファに座っていた。
スマホを見ている。拓人が入ってきても、顔を上げなかった。
「航太、話が」
「別に、話すことないから」
拓人はしばらく、その場に立ち尽くした。
蓮のプレーを見た時の高揚感が、まだ体のどこかに残っていた。それと同じくらいの熱量で、航太のことを見てきただろうか。
自問して、答えが出なかった。
「今日、フェニックスの練習見てきた」
拓人は、あえてその話から始めた。
「ふうん」
「蓮くん、すごいプレーヤーだった」
「そう」
航太は、スマホから目を離さなかった。
拓人はソファの向かいに座った。
「お前が小さい頃、サッカーやりたいって言ったことあったか」
航太が、一瞬だけ顔を上げた。
「覚えてない」
嘘だと、拓人にはわかった。航太の瞬きの回数が、一瞬だけ増えた。
「本当は、興味あったんじゃないか」
「別に」
「今からでも」
「やりたくない」
即答だった。
拓人は言葉を止めた。
なぜ、そこまで拒否するのか。理由を知りたかった。でも、聞き方がわからなかった。
「なんでだ」
「なんでって聞かれても」
航太はようやくスマホを置いた。目に、苛立ちが浮かんでいた。
「パパみたいになれって言いたいの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何」
拓人は言葉に詰まった。
正直、そういう意味も少しあったかもしれない。父と息子で、一緒にボールを蹴る時間。世界中の父親が当たり前に持っている時間を、拓人は航太と一度も持ったことがなかった。
その埋め合わせを、今、無意識にしようとしていたのかもしれない。
「お前には、お前のやりたいことがあるはずだ」
「今更、そんなこと言われても」
航太は立ち上がった。
「パパ、俺が小さい頃、家にいなかったじゃん」
拓人は、返す言葉を持たなかった。
「試合、テレビでしか見たことなかった。誕生日も、忘れられたことあった。それが普通だと思ってた」
事実だった。反論のしようがなかった。
「今更、サッカーやろうとか、話そうとか言われても、困る」
航太は部屋に戻ろうとした。
拓人は、その背中に声をかけた。
「航太」
「なに」
「悪かった」
航太は振り返らなかった。
「今更」
そのまま、部屋のドアが閉まった。
拓人はリビングに一人、残された。
蓮のプレーを見て、確信を持てた。あの子には才能がある。伸ばしてやりたい。そう思えた。
実の息子のことは、何もわからない。
何を考えているのか。何が好きで、何が嫌いなのか。学校で何があったのか。友達関係は、うまくいっているのか。
蓮については、一日会っただけで、いくつも見抜けた。
航太については、十年以上一緒にいて、何も見えていなかった。
夕食の時間になっても、航太は部屋から出てこなかった。
葵と結衣と三人で食卓を囲んだ。
「航太くん、来ないの」
葵が聞いてきた。
「今日は、いいんだ」
拓人は、それ以上説明しなかった。説明する言葉が、見つからなかった。
食事の後、拓人は航太の部屋の前に立った。
ノックしようとして、止めた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
正論をぶつければぶつけるほど、航太は離れていく。それは、今日ではっきりわかった。
正論以外の言葉を、拓人は知らなかった。
結局、ノックしないまま、リビングに戻った。
その夜、拓人はベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
蓮の顔と、航太の背中が、交互に浮かんだ。
一人の少年には才能を見出し、光る未来を思い描けた。もう一人の少年には、何一つ差し伸べる言葉を持たなかった。
翌朝、拓人は台所で弁当を作った。
航太が起きてきた。目を合わせなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
短い返事だった。それでも、返事があっただけましだった。
弁当箱を渡すとき、拓人は何か言おうとした。
言葉が出なかった。
航太は弁当箱を受け取ると、そのまま玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる音を、拓人はしばらく聞いていた。
練習に向かう車の中で、拓人はスマホを取り出した。
佐藤にメッセージを送ろうとした。
「航太のことで、相談が」
打ちかけて、指を止めた。
何を相談すればいいのか。何を聞けばいいのか。
蓮のことなら、いくらでも言葉が出てくる。伸ばすべき点、必要な環境、具体的な指導方針。
自分の息子のことになると、その回路がまるごと動かなかった。
拓人はメッセージを消した。
信号が赤に変わった。
ハンドルを握ったまま、拓人は前を見た。
どうすればいいのか、まったくわからなかった。
◆次回予告◆
練習が終わった後、佐藤から連絡が来る。
「今夜、飯行くか」
断る理由もなく、拓人は誘いに応じる。
公園のベンチで、佐藤が缶コーヒーを渡しながら、静かに言う。
「お前、反抗期の息子に何か言おうとしてるだろ」
見透かされていた。
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